礼拝説教から 2017年11月5日

2017年11月5日
マルコの福音書7章1-13節
神のことばと人間の言い伝え
 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。(マルコの福音書7章8節)
 イエス様の所にパリサイ人たちと律法学者たちが集まりました。そして、彼らはイエス様の弟子の一部が、「汚れた手で、すなわち、洗っていない手」でパンを食べているのを見て、イエス様に質問をしました。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」
 ユダヤ人たちは、昔の人たちの言い伝えによって、手をよく洗ってから食事をしました。これは、単なる衛生上の問題ではなく、宗教的な「汚れ」の問題でした。彼らは、汚れていると考えられる人や物から身を避けることによって、自分の身をきよく保とうとしました。そうすることが、神の民としてのふさわしいあり方であると考えました。そしてそのために、食事の前に手や体を洗ったり、杯、水差し、銅器、寝台を洗ったりしたのです。
 その中でも特に熱心なパリサイ人や律法学者にとって、仮にも神の国の福音を説くイエス様の弟子が、手を洗わないでパンを食べるなどということは、認められないことでした。イエス様への質問というのは、同時に詰問であり、批判でした。
 しかし、そんなパリサイ人や律法学者のことを、イエス様は「偽善者」だと言われました。それは、彼らが口先で神様を敬いながら、その心が神様から遠く離れているということでした。
 イエス様は続けて、パリサイ人や律法学者のしていることをまとめるように、<あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。>と言われました。そして同じような意味のことばを繰り返されます。
 イエス様の目から見れば、パリサイ人や律法学者にとって大切なものは、神様のことばではなく、自分たちの言い伝えでした。パリサイ人や律法学者の問題、それは神様のことばを軽んじて、自分たちの言い伝えを大切にしているということでした。だからこそ、彼らは口先で神様を敬いながら、その心が神様から遠く離れているということになっていたのです。
 「昔の人たちの言い伝え」が受け継がれ、守られていく時、それは「伝統」や「しきたり」と呼ばれるものとなります。
 「伝統」や「しきたり」と言うと、私たちは少し否定的に考える傾向があるかも知れません。しかし、伝統やしきたりというのは、それ自体として、決して悪いものではありません。むしろ、必要なものであり、大切なものでしょう。伝統やしきたりがあったからこそ、社会の秩序が守られ、そこに生きる人々の暮らしや関係が守られてきたと言っていいかも知れません。伝統やしきたりの上に、私たちの暮らしは成り立ってきたのです。
 しかし、その伝統やしきたりが、何か絶対的なもの、絶対に守らなければならないようなものとなる時、しかも神の名において強制されるような時、それらは人々を縛りつけて苦しめるものとなります。伝統やしきたりを守ることにのみ関心が奪われて、そこに生きる人々のことがそっちのけにされてしまうのです。人々の暮らし、人々のいのちがそっちのけにされてしまうのです。
 パリサイ人や律法学者が神様のことばである律法に忠実であろうとしたこと、そのこと自体は決して悪い意図によって始められたことではなかったでしょう。しかし、そのために実に事細かな規則が付け加えられ、それらが昔の人たちの言い伝えとして、神様のことばである律法と同様に、あるいはそれ以上に、絶対に守らなければならないものとして、人々に与えられた時、それらは人々を縛りつけ苦しめるものとなりました。人の暮らしがそっちのけにされ、人のいのちが軽んじられるまでになりました。そしてそれは、人を生かすはずの、人にいのちを与えるはずの、神様の律法の本質を見失うことでもありました。
 イエス様が願われたのは、神様のことばを大切にすることでした。自分たちの言い伝えを守るために、神様のことばを軽んじることではなく、神様のことばを大切にすることでした。
 私たちもまた、何らかの伝統やしきたりの中で生きていると思います。教会もそうです。どうせなら、その伝統やしきたりが、私たちのいのち、私たちの信仰生活を豊かにするようなものとなることを願います。神様のことばを大切にし、神様のことばによって生かされる時、その道が開かれてくるのではないかと思います。

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