礼拝説教から 2017年10月29日

2017年10月29日
マルコの福音書6章45-56節
再び、湖の上で
 イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。そばを通りすぎるおつもりであった。(マルコの福音書6章48節)
 みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。(マルコの福音書6章50節)
 いわゆる「五千人の給食」の出来事の後、イエス様は弟子たちを無理やり舟に乗り込ませられました。そして、イエス様ご自身は人々を解散させておられました。
 舟に乗って向こう岸へと出発した弟子たちは、向かい風のために漕ぎあぐねることになりました。彼らは自分たちが願って舟に乗ったのではありませんでした。イエス様に無理やり乗せられたのです。そして、向かい風のために苦しんでいました。
 もしかしたら、イエス様に不平不満を漏らす弟子たちもいたのではないでしょうか。そして、イエス様が舟に乗っておられない中で、また以前に経験したような突風にでも襲われたりしたら、それこそ大変なことになるのではないかと心配する弟子たちもいたかも知れません。弟子たちにとって、イエス様がいてくださるかどうかというのは、とても大きなことだったでしょう。
 この時、イエス様は何をしておられたのでしょうか。人々を解散させられた後、イエス様は山に行って祈っておられました。そして、向かい風のために漕ぎあぐねている弟子たちをしっかりと見ておられました。イエス様は祈りの中で、弟子たちのことをしっかりと見ておられ、彼らの苦労を知っておられたのです。そして、彼らの所に近づいて行かれました。
 この時、弟子たちとイエス様の間には湖が横たわっていました。湖は弟子たちとイエス様の間とを隔てる大きな障害物です。しかし、イエス様はその湖の上を歩いて弟子たちに近づいて行かれました。そして、ご自分のことを幽霊と勘違いしてしまう弟子たちに、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と励ましてくださいました。
 私たちは人生の様々な局面で向かい風を受けます。教会の歩みにおいてもそうでしょう。そして、私たちは向かい風を受ける時、「イエス様はいったいどこにおられるのか」、「イエス様はいったい何をしておられるのか」というようなことを思ったりします。
 しかし、私たちが向かい風を受けて苦しんでいるまさにその時、イエス様はその私たちをしっかりと見ていてくださいます。知らんぷりをしておられるのではなく、向かい風を受けて苦しんでいる私たちのことを、祈りの中で見ていてくださいます。そして、イエス様を知ることができず、信頼することのできない私たちに、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と語っていてくださいます。
 向かい風を受けることは避けることができません。大切なことは、「いかに向かい風を避けて通るか」ということではなく、向かい風を受けることはあっても、その中でイエス様が私たちをしっかりと見守っていてくださることを知ることです。イエス様が祈りの中で、私たちを見ていてくださり、私たちとともにいてくださることを知ることです。
 私たちはどのような向かい風を受けているでしょうか。ともにいてくださるイエス様の御声に耳を傾けながら、恐れることなく歩む力をいただきたいと思います。 

 

コメントを残す