礼拝説教から 2017年10月22日

2017年10月22日
マルコの福音書6章30-44節
五つのパンと二匹の魚から
 さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。(マルコの福音書6章30節)
 イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて来て言った。「五つです。それに魚が二匹あります。」(マルコの福音書6章38節)
 福音宣教の働きに遣わされていた弟子たちが、イエス様の所に帰ってきました。そしてその宣教報告をしました。その報告は、「自分たちがしたこと、教えたこと」についてでした。弟子たちの報告のポイントは、自分たちを用いてくださった神様にではなく、自分たち自身の働きにあったようです。
 その弟子たちにイエス様が言われたのは、「よしよし、よくやった」というようなお褒めのことばではありませんでした。それは「あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」ということでした。「寂しいところ」へ行ってです。
 ここで「寂しいところ」と訳されているのは、「荒野」と訳されているのと、同じことばです。荒野というのは、人里離れた所であり、人と人との関係から断ち切られて、神様とだけ向き合うことのできる所です。神様だけを見上げ、神様との一対一の関係の中で、自分を見つめ直すことのできる所です。その荒野のような「寂しいところ」へ「あなたがただけで」行って、休みなさいと、イエス様は弟子たちに言われたのです。それは、文字通りに、ゆっくりと体を休めなさいということ以上に、神様との一対一の関係の中で静まりなさいということになるでしょう。
 弟子たちはイエス様の指示に従って、自分たちだけで寂しい所へ向かいましたが、自分たちだけで静まることはできませんでした。多くの人々が弟子たちの行く所に、先回りをして集まっていたからです。そして、「羊飼いのいない羊の群れ」のようである多くの人々を深くあわれまれたイエス様が、多くのことを教え始められたことから、いわゆる「五千人の給食」の出来事が始まります。
 時刻が遅くなって、早く解散させなければ大変なことになると心配する弟子たちに対して、イエス様は「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい」と言われました。今日の本文の最後には、「男が五千人」とあります。ものすごい人数です。弟子たちは、「二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか」と答えるしかありませんでした。その核心は、「そんなことはできない」ということです。弟子たちはどうすることもできませんでした。福音宣教の働きに遣わされて、大きな働きをしてきて、喜んで「自分たちがしたこと、教えたこと」を「残らず」報告した弟子たちでしたが、改めて自分たちには何の力もないことを自覚させられたのではないかと思います。
 しかし、イエス様は構わずに事を進められます。パンがいくつあるかを確認させられました。弟子たちの答えは、「五つ」ということでした。そして「魚が二匹」ありました。五千人の前で、五つのパンと二匹の魚というのは、ちっぽけなものでしかありません。何の役にも立たないものです。しかし、イエス様はその五つのパンと二匹の魚を用いて、五千人もの人々に食べさせられたのです。しかも皆が「満腹」しました。
 弟子たちの間にあったもの、それはちっぽけなものでしかありませんでした。何の役にも立たないようなものでした。しかし、イエス様が用いられる時、それは豊かな実りを生み出すものとなりました。五千人もの人々を養うものとなりました。
 私たちの持っているもの、それは弟子たちと同じように、実にちっぽけなものでしかありません。私たちには、人を生かす力も、人にいのちを与える力もありません。この世界で起こっている複雑で深刻な問題を一つ一つ解決していく力もありません。しかし、その私たちをイエス様は用いようとしておられます。
 大切なことは何でしょうか。それは、大きな力を持つことではありません。自分を強く見せることでもありません。そうではなくて、イエス様が小さな私たちを用いてくださることを知ることです。そして小さな私たちをイエス様が用いられる時、それは豊かな実りを生むということを知ることです。
 人間的な基準で、小さな者であること、何の力もないこと、これは何も恥ずかしいことではありません。むしろ、小さいからこそ、何の力もないからこそ、イエス様に用いていただくことができるのではないでしょうか。小さな私たちを用いて、豊かな働きをなしてくださるイエス様に、いつも期待していたいと思います。

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