礼拝説教から 2017年10月15日

2017年10月15日
マルコの福音書6章14-29節
ヨハネがよみがえったのだ?
 しかし、ヘロデはうわさを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ」と言っていた。(マルコの福音書6章16節)
 ヘロデは、兄弟ピリポの妻ヘロデヤを自分の妻としている罪を、バプテスマのヨハネから指摘され、ヨハネを牢につなぎました。しかし、ただちにヨハネを殺してしまうことはしませんでした。むしろ、ヨハネが正しい聖なる人であることを知り、彼を恐れ、彼に保護を加えました。そして、ヨハネの教えに、当惑しながらも、喜んで耳を傾けていました。
 ヨハネの教え、それはヘロデに当惑と喜びをもたらしました。
 ヨハネは、荒野で「罪の赦しのための悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝えました。「悔い改める」、それは、神様の方へと方向転換をすることです。見当違いな方向を向いていた人が、神様の方へ向き直り、神様に王となっていただき、神様のご支配を受け入れ、神様のことばの光に照らされて歩むことです。
 ヨハネは、この悔い改めをヘロデにも説いたのではないかと思います。そしてその罪の赦される道が開かれていることを説いたのだと思います。神様なしの世界で生きてきたヘロデにとって、ヨハネの教えは、これまでとはまったく異なる、新しい世界への招きであったと言ってもいいかも知れません。ヘロデはヨハネの教えに喜んで耳を傾けました。
 しかし、その一方で、ヘロデは、ヨハネの教えに当惑しました。もしかしたら、ヘロデは、ヨハネの教えを受け入れることによって、これまでの自分のままではいられなくなることを、感じ取っていたのかも知れません。神様に自分の王となっていただき、神様のご支配を受け入れ、神様のことばの光に照らされながら生きることによって、これまでの人生で築き上げてきたもの、獲得してきたものを、手放さざるをえなくなることを、感じ取っていたのかも知れません。
 神様のことば、これは私たちが選んで自分の人生に役立てるためのものではありません。そうではなくて、私たちにいのちを与えるものです。私たちの人生に変革をもたらすものです。その中心にある御子イエス様の十字架の光によって、世界の闇を照らし、私たちの闇を照らすものです。私たちの罪を明るみにし、同時にその罪が赦されていることを示し、イエス様を信じ受け入れる人々に新しいいのちを与えるものです。
 ヘロデは結局、ヘロデヤの悪巧みによって、ヨハネの首をはねてしまいました。招いた人々の前で、自分の体面を守るために、軽率な誓いを破ることができなかったからです。それは、結局の所、ヘロデがヨハネの教えに魅力を感じながらも、自分が変えられることを望まなかったということを意味するでしょう。
 しかし、そのヘロデの耳に、イエス様の噂が入ってきました。このイエス様について、「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と考える人々がいました。ヘロデはヨハネの教えが頭から離れなかったのでしょうか。「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ」と言いました。
 ヘロデにとって、イエス様は単なるヨハネの生き返りではありませんでした。自分が首をはねたヨハネの生き返りでした。イエス様は他人事ではなく、自分自身の問題でした。ヘロデは、イエス様との一対一の関係の中に招き入れられようとしていたのです。そこで、悔い改めることを、方向転換を求められていたのです。
 私たちはどうでしょうか。自分の人生に役立つものとして、神様のことばに耳を傾けているでしょうか。あるいは、神様のことばによって、変えられることを願っているでしょうか。自分が自分の王であることを止めて、誰よりも自分自身を知っておられ、愛しておられる神様に王となっていただき、そのことばの光に照らされて、神様に愛されて造られた本来の姿へと変えられていくことを願っているでしょうか。
 神様のことばの中で、御子イエス様との一対一の関係の中に立たせていただきたいと思います。イエス様の十字架の前で、一切の仮面を剥ぎ取って、着飾っている一切のものを脱ぎ捨てて、丸裸になりたいと思います。そうした時、私たちは、自分もまた罪人であることを知ることとなり、イエス様が十字架にかかってくださったのは、まさに自分の罪のためだったんだということを知ることになるのだと思います。
 御子イエス様を王として迎え、そのイエス様のことばによって変えられ続けていく者とならせていただきたいと思います。

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