礼拝説教から 2017年9月17日

2017年9月17日
マルコの福音書5章21-43節
タリタ、クミ
 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)(マルコの福音書5章41節)
 会堂管理者の一人であるヤイロは、死に瀕している娘を助けたい一心で、イエス様の足もとにひれ伏しました。そこには、「イエス様だったら」という希望があり、信仰があったのだと思います。しかし、イエス様がヤイロの家に到着する前に、ヤイロの娘は死んでしまいました。ヤイロの希望は絶望に変わりました。ヤイロにとって、イエス様を信じることは、何の意味もないことになりました。すべては終わったのです。
 しかし、イエス様はそんなヤイロに言われました。「恐れないで、ただ信じていなさい。」(36)そして、ヤイロの家へと向かわれました。
 ヤイロの家では、人々が取り乱して泣き叫んでいます。一人の人の死を前にして、人は泣き叫ぶことしかできません。むしろ、泣き叫ぶことができるというのは、せめてもの幸いとでも言うべきなのかも知れません。
 しかし、その人々に対して、イエス様は言われました。「子どもは死んだのではない。眠っているのです。」(39)
 「眠っている」というのは、後に「目覚める」、「起きる」ということを前提にしています。イエス様はヤイロの娘が死んだのではなく、眠っているのだと言われました。そして「タリタ、クミ」(41)と言って、ヤイロの娘を起こされました。確かに死んだはずのヤイロの娘は、イエス様のことばによって、まるで眠りから目覚めるように、生き返ったのです。
 死は、私たちにとって、最も大きな問題です。誰も克服することができず、誰も避けて通ることのできない問題です。私たちの人生、それは死というゴールに向かっているのだと言っても、過言ではないでしょう。
 しかし、死んだヤイロの娘のことを、「眠っている」のだと説明し、その娘に「タリタ、クミ」と語りかけられたイエス様は、死というゴールで終わるになる人生ではなく、生も死も支配しておられるご自分とともに、永遠のいのちを生きる人生があることを、示してくださっています。
 イエス様とともに永遠のいのちを生きる人生、そこにも苦しみはあります。痛みや悲しみがあり、もちろん死もあります。しかし、死に支配されることはありません。死に向かって生きるのではなく、死を克服してくださった方、死から解放してくださった方とともに生きるからです。そしてそのために、本当の意味で、死と向き合うことができ、与えられた人生を生きることができるのだと思います。
 私たちはどのように死と向き合っているでしょうか。ヤイロの娘に「タリタ、クミ」と語りかけられたイエス様の御声を聞きながら、死の問題を見つめ、与えられた人生の一日一日を大切に歩みたいと思います。

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