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三位一体

三位一体

 三位一体という言葉は聖書には出てきません。けれども、三位一体の解釈に通じる聖書の箇所が二つあります。それは、マタイの福音書28章19節の言葉(父と子と聖霊)と、コリント人への手紙第二13章13節にある祝祷の言葉です。

 しかし、この二つの聖句だけが三位一体の教理を生みだしたと考えるのは間違いです。聖書全体がそれを明らかにしているのです。それも段階的に、神がご自分を啓示していかれるプロセスの中で明かされていくのです。この点について、カッパドキヤの三教父の一人、ナジアンゾスのグレゴリウスが次のように記しています。

「旧約聖書は父を公に説教しているが、御子についてはずっとおぼろげに語っている。新約聖書は御子を啓示したが、聖霊の神性については暗示しているにとどまる。しかし、今や、聖霊は私たちの内に住み、もっと明確に私たちに啓示されている。」

 つまり、神というお方が、唯一まことの神であられながら、同時に三つの人格※を持ち、父なる神、子なる神イエス・キリスト、そして聖霊という別個の独立した働きをする存在であるということは、啓示の進展の中でわかってきたと言っているのです。

(厳密には人格という言葉は間違っています。正しくは位格といい、

人が神に創造されたという視点から考えるなら、神格とでも言うべきなのかもしれません)。

 御子を派遣されたのは父なる神であり、十字架に架けられたのは御子であり、福音を啓示して私たちを信仰に導いたのは聖霊です。決して父なる神が変身して御子になり十字架に架けられたのではないし、御子が変身して聖霊になり私たちの内に住まわれたのでもありません。もしそうなら、イエス・キリストの福音は、父なる神による自作自演の茶番劇になってしまいます。また、イエス様が父なる神に向かって祈り、最後の晩餐の時に聖霊について紹介されたというストーリーは、もはや変人の妄想です。  そう考えると、三位一体の教理は、私たちの救いと深くかかわっていることがわかります。確かに、聖書の神には三つの位格があり、父と子と聖霊は独立した存在です。しかし、神の本質においては同一、これが古代信条の定式です。私たちは、この三位一体の神の偉大な計画とその実行によって救われ、子とされたのです。

Published in牧師のつぶやき

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