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神がはじめた教会!?

 1969年4月、ドイツから来た女性宣教師ギセラ・ウィンドさんが、桂病院に入院中のある女性を見舞いに行きました。病院の屋上に上って桂一体を見渡した時、神がギセラ・ウィンド宣教師に語られたのです。「桂に私の教会をたてる」と。なんともぶっとんだ話ですが、その時から洛西キリスト教会は始まりました。これまでに何人もの宣教師や牧師が赴任してこられて、多くの方が教会に足を運ばれました。中には信仰を持ってクリスチャンになった方もいますし、そうでない方もおられます。

 洛西キリスト教会はキリスト教を信じる・信じないに関わらず、友だちや家族を連れてくることのできる教会です。決して信じることを無理強いしたり、信者になることを強制したりすることはありません。基本、関心のある方にだけ、聖書入門講座や洗礼準備の学びをおすすめしています。スタートしてから途中でやめることもできます。自発性を重んじるというか、ゆるいというか・・・。

 礼拝には信者でない方も参加することができますし、ゴスペル教室や洛彩ゴスペルクワイアーの練習などは半数以上が信者ではありません。それでも、みんな大切な仲間です。お互いいろんなかたちで貢献しています。 じゃあ、何でもゆるゆるで、何にもポリシーがないのかというとそうではありません。そこで、洛西キリスト教会が目指していることを紹介します。

三つの愛に生きる

イエス・キリストは大切な二つの命令を人々に教えられました。それは、神を愛することと、周りの人々を自分を愛するように愛することの二つです。この二つの命令には、三つの愛が教えられています。それは①神を愛し、②自分を愛し、③周りの人を愛する、というものです。

自己受容

現代人にとって問題となっているのは、②なのではないかと思います。自分を愛せないがために、他者の存在(神や社会や隣人)を大切に思えないのではないでしょうか。アルフレッド・アドラーという心理学者がこう言いました。「大切なことは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかである」と。実は自己受容とは大変難しいことです。理想どおりになれない、または思い通りにならない、そんなあるがままの自分としっかりと向き合って、それを受け入れて生きる。ある意味あきらめて生きる。そして、あるがままの自分で済ますと言いますか、それしかないんだから、それと仲良く生きるというのは、腹をくくらなければできないことです。それができたなら、意外と自分というものが可愛くなってくるし、おもしろくもなるし、人生捨てたもんじゃないって思えてくるのです。そうしますと、そんな自分を創ってくださった神の存在も受け入れられるようになるし、信頼も出てくるし、ついには、隣人を受容するゆとりも出てくるんじゃないかと思うのです。

この三つの愛を生きられたのがイエス・キリストです。神を信頼し、あるがままの自分を神に愛された者として受け入れ、弟子たちを大切にされました。

聖書はこのイエス・キリストが、人類の罪の身代わりに十字架で死なれ、よみがえられたと教えます。神話的というか、つかみどころのない話に思われるかもしれませんが、この十字架と復活を通して、神はご自身の愛を表されたと聖書は教えるのです。いのちがけの愛・無条件の愛です。あるがままの私たちを受け入れてくださったのは、他でもない、神なのだというわけです。この愛を土台としながら、自分を受け入れ、周りの人を大切にしていくことを私たちは目指しています。