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回心の証拠

●回心した人は、もう何も気にならないとは言わずにこういうものです。あるものすべて、一つひとつが神のみ手の中で起きていることであり、神こそわたしたちが、物事のほんとうの秩序を知るようになる拠り所だと。また、「神が存在することがわかったので、何も問題はなくなりました」とは言えません。それどころか、「今や、すべてが神の光に包まれているので、大切でないものは何一つありえない」と言うのです。回心した人は、神の眼で見、神の耳で聞き、神の心で理解するのです。自分も全世界も神のみ手の内にあることを知るのです。神がおられるところに立っており、そこから見ると、すべてのことが大切になるのです。(ヘンリ・ナウエン著、『イエスの示す道』受難節の黙想、から)

回心したのに、私はいろんなことが気になります。人の目が気になり、世間の評価が気になり、身近に成功している人が気になります。また、神の存在を信じているにもかかわらず、いまだ問題だらけです。それって、回心していないからでしょうか。あるいは神の存在を信じ切れていないからでしょうか。聖書を読む時、そこに人のことが気になっているペテロがいます。見ないと信じない!と言っているトマスがいます。神を信じたにもかかわらず問題だらけの人生を歩んだアブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデなどなど、がいます。しかし、彼らの特徴は、幸せだの不幸せだの、成功だの失敗だの、人生に優劣をつけなかったことにあります。全ては神の手にあることと受け止め、神の慈愛にすがったのです。だから、私も、物事に白黒つけず、神の憐みにすがります。キリエ・エレイソン。奥村拓也

Published in牧師のつぶやき

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