〔使者〕
2014年5月1日(木)
「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。」(マタイ10:16)
使徒の働きが徒労に終わり、「敵意」に出会おうとも、使徒は、自分がイエスから遣わされた者であるということを忘れてはならない。
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一体誰が、「霊的な賢さ」を「この世のずるさ」から常に区別することができるのであろうか。
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神の言葉のあるところに、弟子たちもあるべきである。これこそ、弟子たちの正しい「賢さ」であり、正しい「素直さ」なのである。あからさまな拒否に出会って、神の言葉が退かなければならないとしたら、弟子はこの言葉といっしょに退くがよい。神の言葉が公然と戦端を開いて踏みとどまるなら、弟子もとどまるがよい。いずれの場合にも、弟子は賢く、かつ素直に行動しなければならない。
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神の真理のもとにとどまることだけが、どんな場合にも賢明である。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、217頁f。
賢く生きる道も、素直に生きる道も、聖書のみ言葉の中にあります。自分の判断で、またこの世的な判断で賢さと素直さを求めるのではなく、聖書のみ言葉の中にある賢さと素直さを求めなければなりません。そうして聖書そのものと共に歩む道を選択していくのです。
神の言葉が退けられるならば、その神の言葉と共に自分自身も退けばいいのです。神の言葉が踏みとどまるならば、その神の言葉と共に自分自身も踏みとどまればよいのです。
神の言葉と共に、退き、また踏みとどまろうとするとき、この世は、あるいは自分自身の古い性質は、非難の声を上げるかもしれません。しかし使者は、主イエスさまに遣わされた者です。自分の判断で、自分の気持ちで、その場にいるのではありません。また自分の仕事をしているのではありません。イエスさまに遣わされ、イエスさまの仕事をしているのです。
神さまの言葉にとどまることだけが賢明なことなのです。神さまの言葉に、その道に素直な者となりたいと思います。
(祈り)
神さま、常にみ言葉と共に歩むことができるように助けてください。