牧師の日常と雑感
静まりの時 エペソ2・1~10〔豊かないのち〕
日付:2025年05月09日(金)
8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
私の行いによって救われたのではなく、神さまの一方的な恵みによって私は救われました。救いにおいては私は何の役にも立たなかったということです。私はその神さまの一方的な恵みを信じる以外にありません。恵みの神さまを信じる、神さまがなしてくださった十字架と復活の御業を信じる、それが私のためであったと信じる。そのように信じるという信仰によって私は救われます。
救われるということはどういうことであるのか。
「自分の背きと罪の中に死んでいた者」「それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでい」た者、「不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子ら」。
そういう者でしたが、神さまの豊かな愛によって救っていただきました。
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」。
キリストとともに生かしてくださったこと。
「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」。
キリストにあって、よみがえらせ、ともに天上に座らせてくださったこと。
救いとは、キリストと共に生き、キリスト共に天の御座に座ることです。
その目的は、
「それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした」。
救われた目的は、神さまのこの豊かな恵みを来るべき世々に示すためです。私のためではありません。救いの目的は自分のため、ということであれば、それは救われているのではないのかもしれません。救われたのは、ただ神さまのためです。
9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
神さまの一方的な恵みによって救われたのは、私の行いによって救われたのではない、ということですが、それは行いはどうでもよいと言っているのではありません。むしろ救われたというのならば、良い行いをするはずです。私たちは神さまの作品なのです。良い行いをするために造られたものなのです。行いはどうでもよいといって、相変わらず罪を容認するようななかにあるならば、それはやはり救われているとは言い難い。
そして本当に救われているというならば、良い行いに生きる時、その行いをも神さまが備えてくださったと感謝します。
教会がこの神さまの一方的な恵みによる救いを語るところ、教えるところ、であるとすれば、人間の行いが称賛されるようなプログラムは一切排除すべきですから、教会の歴史を見ると、その努力の跡を学ぶことができます。
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