• わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します

    静まりの時 ヨハネ17・14~19
    日付:2024年05月04日(土)

    「わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。」(19)

     聖別する、という言葉は少しわかりにくい言葉ではないかと思います。もとのギリシャ語は「ハギアゾー」という単語で、「清くする、清める、聖なるものにする」、「聖なるものとの接触によって清くする」「供物としてささげる」「聖なるものとして取り扱う」などと辞書に書かれていました。
     いくつかの訳で読んでみたいと思います。

    【新共同訳】
    「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」

    【共同訳2018】
    「彼らのために、私は自らを聖なる者とします。彼らも、真理によって聖なる者とされるためです。」

    【バルバロ訳】
    「そして、私は、かれらを真理によって聖別するために、かれらのために自らをいけにえにのぼります。」

    【フランシスコ会訳1980】
    「彼らのために、私は身を捧げます。彼らも真理によって、捧げられた者となるためです」。

    【フランシスコ会訳2011】
    「彼らのために、わたし自身をおささげいたします。彼らも真理によって、ささげられた者となるためです」。

     イエスさまがここでご自身を聖別する、と言われているのは十字架のことである。その十字架は、イエスさまご自身の意志によるものである、その目的は、弟子たちが聖別された者、献げられた者となるためである。イエスさまが十字架にかかることで、どうして弟子たちが聖なる者となることができるのか。それは真理によるのだ。真理によって弟子たちは聖別された者となるのだ、と。
     真理によって聖なる者となる、というのは独り歩きしやすい言葉ではないかと思います。真理とはイエスさまご自身のことですから、イエスさまによって聖なる者となる、それはまた聖霊によって聖なる者となると理解するのが良いように思います。自らの内に真理が形成され、それが私たちを聖なる者とする、というのではありません。

     十字架にご自身をお献げくださった主イエスさまに触れる、交わりをいただく。そこに真理である三位一体の神さまがお働きくださり、私たちは聖なる者とされていく。礼拝とは、まさにイエスさまに触れることであり、そうして神さまの一方的なお働きにによって、イエスさまに触れる私たちが聖なる者とされていくことです。
     幾度も書きましたが、アビラのテレジアは、「真理とは謙遜のことである」と語ったそうです。十字架に自らをお献げくださるほどにへりくだってくださった神さまに触れる私たちは、そこでまことの謙遜に出会います。そうして自らも謙遜にされるのです。この謙遜が、私たちを聖なる者と造り替えていきます。そもそも礼拝を献げるということ自体、謙遜がなければ成り立たないことです。謙遜のない賛美はエンターティナーであり、謙遜のない祈りは労働組合の団体交渉、謙遜のない説教は語る者においては独演会、会衆においては観劇、謙遜のない献金は観劇に対する報酬、謙遜のない交わりは指導や支配、おおよそ謙遜のない礼拝は、キリスト教とは似ても似つかない宗教行為となり果ててしまいます。
     すべてにおいて献げるということを見失ったとき、私たちはイエスさまを見失っているのです。そうして兄弟姉妹をも見失ってしまいます。また何よりも自分自身を見失います。

    「・・・『神は最高の真理であるから、謙遜は真理のうちに歩むことである』と。私たちは何もよいものを持たず、あわれさと無に過ぎないことは本当に大きな真理です。これが分からない人は偽りのうちに歩みます。」
    (アビラのテレジア、『霊魂の城』、「第六、10章7節」、聖母の騎士社、1992年、351頁)