静まりの時
- テーマ:主に仕える人
- 聖書箇所:第一列王記18・41~46
- 日付:2026年09月01日(火)
43 彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海の方をよく見なさい。」若い者は上って、見たが、「何もありません」と言った。するとエリヤは「もう一度、上りなさい」と言って、それを七回繰り返した。
44 七回目に若い者は、「ご覧ください。人の手のひらほどの小さな濃い雲が海から上っています」と言った。
エリヤは「激しい大雨の音」を聞きました。予感した、というほうがふさわしいかもしれません。それで、アハブ王には大雨の前に食事(宴?)をせよ、といい、自分は、カルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめました。これは、ああはいったけれども本当に大丈夫だろうか、という気持ちだったのかもしれません。そして若い者に、空模様を見に行かせます。
若者からの報告に期待されたのは、空を覆う黒雲が海からこちらに向かっています、ではなかったかと思います。しかし、若者の報告は「何もありません」でした。もし「自分の顔を膝の間にうずめたこと」(42節)が、エリヤの不安を現しているとすれば、若者からの報告は不安は膨らませます。
エリヤは、もう一度、上りなさい、と言い空模様を確認させます。これが七回続きました。若者からの報告は六回、何もありません、でした。しかし七回目の報告は違いました。「人の手のひらほどの小さな濃い雲が海から上がってきます」。ようやく小さな兆しが見えました。
私たちの信じる神さまは全能なるお方ですから、瞬時に大雨を降らせることもできますし、その兆しを鮮やかに示すこともおできになります。しかし神さまが私たちに期待されるのは、信仰です。神さまへの信頼です。バアルの預言者との信仰の戦いに勝利したあとも、引き続きエリヤには信仰が求められたのだと思います。何もありません、との報告を聞くたびに、神さまへの信頼が問われたことだと思います。また大雨を予感しているにもかかわらず手のひらほどの小さな雲も、まさに神さまへの信頼が問われたでしょう。
信仰は、信じることである、とともに、信じ続けること、です。瞬発力ではなく持久力、短距離走ではなく長距離走の力が求められます。熱しやすいものは、冷めるのもはやいものです。瞬発力で教会が建て上げられることも決して否定されることではありませんが、どれだけ多くの地道な祈りが今日の教会を支えているか、を見失ってはなりません。