投稿者: 塩辛と お茶漬け

  • 都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて

    静まりの時

    • テーマ:地上に平和を
    • 聖書箇所:ルカ19・37~46
    • 日付:2026年08月12日(水)

    エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
    「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」
    (41~44)

    イエスさまは都エルサレムのために涙を流されました。平和に向かう道を知らない神の都をご覧になり涙を流されたのです。人びとの心は決して平安とは言えない状態の中にありながら見せかけの繫栄の中にあるエルサレム。神の子イエスさまが来られたのにも関わらず、受け入れないばかりかむしろ拒み、とうとう十字架につけて殺して今うエルサレム。主はその姿を見て涙を流されました。

    私たちの信じる神は、涙を流されるお方です。まことの神は涙を流されるのです。

    人間の流す涙にはいくつもの理由があると思いますが。また悲しみの涙にも種類があるように思います。

    自分をあわれみ涙を流して悲しむ、ということがあります。また誰かを見てあわれみ涙を流すということもあります。

    81年前に日本の敗戦によって終結した戦争の記憶を学びながら涙を流すということがあります。二つの原子爆弾によって無差別の殺戮が行われたことを悲しみ、またその犠牲となった数知れない人びとのこと、いまも苦しみの中にある人びとを思いながら涙を流すということもあります。

    そういう体験をしたにもかかわらずいまだ核兵器を根絶することの出来ない人類の愚かさに涙するということもあります。月にまで行くことの出来る科学力、目に見えないウイルスやさまざまな疾病に対する取り組み、通信技術、快適な生活環境における先進技術、などなど。そのような中にあって、一人の人を愛することの出来ない罪。グローバリズムといいつつ、あからさまな自国中心主義が主張され、国と国が疑心暗鬼のなかで欲望をむき出しにしています。戦いは止みません。むしろ拡大の一途をたどっています。その人間の愚かさに涙を流します。先人の並々ならない努力によって作られた平和憲法を変え、戦争のできる国への準備が着々を進んでいます。この世界は悲しみに満ちています。

    主はきょうも涙を流されているように思います。