牧師の日常と雑感

しおからとお茶漬け

静まり~聖書の言葉から

  • 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです

    静まりの時 ヨハネ6・53~58
    日付:2024年04月25日(木)

    53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
    54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
    55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
    56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。
    57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
    58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

     永遠のいのちに生きるためには、「このパン」、すなわちイエスさまの肉を食べる、イエスさまの血を飲む必要がある。イエスさまはそう言われました。
     イエスさまを信じて、イエスさまを心の王座に迎えることによって救われる。イエスさまの十字架が私の罪のためであったことを信じる。イエスさまは、乙女マリアよりお生まれになり、どんな暗闇の中にも、神がともにおられることを明らかにしてくださった。その神さまの愛を信じる。主の復活を信じ、その力に新しく生きる。死のかなたまで、世の終わりまで、ともにおられることを信じる。それらはみな信仰の根幹にかかわることです。
     しかしそれらに加えて、あるいはそれらを総括するように、イエスさまは、「このパンを食べる者は永遠に生きる」と語ってくださいました。聖書だけを読んでいるとピンとこないかもしれませんが、教会生活の中でこの聖書の個所を読むと、これが象徴的、哲学的な意味ではなく、聖餐式のことを指していることが分かります。

     聖餐式の始まりが、弟子たちの共同体ではなく、イエスさまご自身にあることがまず明らかにされています。聖餐式は、それまでのユダヤ教の祭りになぞらえながらも、新しい戒めとして、イエスさまご自身がお命じになったことです。これは洗礼式についても言えます。洗礼式自体は、ユダヤ教にもありますし、水の洗い、と考えるならば、さまざまな宗教にあります。しかし、主イエスさまの名による洗礼、あるいは父と子と聖霊の三位一体の名による洗礼は、イエスさまご自身が新しく命じられたものです。教会は、この二つの聖礼典(サクラメント)によって立っています。
     聖餐式は、本来は毎週の日曜日において、あるいは初代教会では日々行われた礼拝において行われました。メソジストの始まりといっていいウェズリーなども日々行ったそうです。私たちの教会では第一日曜日に行うことになっています。
     この聖餐式において、パンを食べる、ぶどう酒(汁)を飲む。それによって、私たちは永遠のいのちをいただく。永遠のいのちに生きる者であることを確かにするのです。
     
     そこで、ただいただくというのではなく、「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです」と主は言われました。
     「生ける父がわたしを遣わされ、わたしが父によって生きている」。そのように「わたしを食べる」。そうすることによって、主にあって「生きる者」となる。すなわち永遠のいのちに生きる者となる。あるいは永遠のいのちに生きる者であることを確かにする。

     父なる神さまによって遣わされていること。そうして父によって生きている。それが私である、ということ。そのように、私たちも、イエスさまによって遣わされ、イエスさまによって生きている、ということ。イエスさまへの信仰、信頼。その信仰によって、パンを食べ、ぶどう酒を飲む。そのとき、私たちが永遠のいのちに生きていることが確かにされる。
     イエスさまへの信仰がない中でいくらパンを食べ、ぶどう酒を飲んだところで、意味がない。イエスさまへの信仰、信頼が前提となって、聖餐式は聖餐式となります。
     ですから聖餐式においては、毎回信仰が確認されます。

     そこで確認される信仰とはいったいなんであるのか。罪を犯すことがなかったか。罪を犯したならば悔い改めているか。深くイエスさまを信じているか。イエスさまへの愛に生きているか。そういうことを吟味することは、大切なことだと思います。
     しかしそれ以上に大切なことがあります。それは洗礼を受けているか否かです。罪を犯すことがなかったか、など上記の信仰は、すべて自分の側の歩みを振り返ることでした。それに対して洗礼は、自分の側のこととともに、教会の出来事、牧師による行為、が重なっています。上記の信仰を主観的な側面と考えるとすると、洗礼は客観的な側面を持っているものです。
     信仰とは、私が何かをなしたということではなく、神さまが何をなされたのか、ということに重きを置くこと。砂地ののような自分を土台にして信仰を考えるのではなく、岩地のような神さまを土台として考える。主観的なところに立つだけではなく、客観的なところに立つ。洗礼は、歴史的な事実なのです。
     洗礼は、聖書を深く学んだから、とか、立派な信仰、あるいは行いに生きたから授けていただいた、というものではありませんでした。自分がどんなに深い罪びとであるかを知り、その私のために神さまが十字架にかかりよみがえってくださったことを、ひたすら一方的な神さまの愛の技として信じたことによって、洗礼を授けていただいたのです。
     聖餐式の前に自らの信仰を問う、自らのふさわしさを問うのは、いかに自分がふさわしくないものであるのか、そのふさわしくないはずのものを、驚くべきことに神さまが愛してくださり、ふさわしいものとして受け入れて下さった、その神さまの恵みを深く心に刻むことです。まさに、ふさわしくない者であるがゆえに、聖餐にあずかるふさわしさがあるのです。
     そのように、パンとぶどう汁をいただくとき、私たちは、永遠に生きる者であることを確かにします。

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