• みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい

    静まりの時 第二テモテ4・1~4
    日付:2024年05月18日(土)

     神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。
     みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
     というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
    (1~4)

     パウロは、みことばを宣べ伝えることをテモテに命じます。テモテにとって、そしてすべての伝道者にとって、みことばを宣べ伝えることは、命じられてすることです。命じられてすることが、みことばを宣べ伝えることなのです。自分がやりたいからではなく、神さまが命じておられるから、宣べ伝えるのです。
     ですから、時が良くても悪くてもしっかりとやらなければなりません。時が良いから宣べ伝え、時が悪ければ宣べ伝えないということではありません。どのような時であっても、ひたすら宣べ伝えること、それがみことばです。どのような時も朝に太陽はのぼり夕べには太陽が沈みます。それと同じように淡々と語り続けるのです。
     それは何よりも日曜日の礼拝において宣べ伝えられることでしょう。時が良くても悪くても、礼拝において聖書のみことばが語られる、宣べ伝えられる。その使命を説教者は神さまからゆだねられています。
     ですから説教者には、忍耐が必要です。絶えず教えながら、責め、戒め、勧めるには、忍耐が必要なのです。忍耐がないと、責めることができません。戒めることも、勧めることもできないのです。もし忍耐がなくなって責めてしまうなら、交わりを破壊してしまうことになります。

     時が良くても悪くても、みことばを宣べ伝えよ、と命じられなければならないのには、理由がありました。まもなく「人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです」。

     罪びとである人間は「健全な教えに耐えられなく」なる、健全な教えよりも自分たちの「耳に心地よい話」を聞こうとする、そのために「自分の好みにしたがって自分たちのために教師を集め」ようとする、そうして「真理から耳を背ける」「作り話にそれて行くような時代」になる、というのです。

     伝道者と召されて30年を超えるのですが、週に一度の礼拝での説教を数えると、年間約50回ですから千五百回以上説教をしてきたことになります。週日の祈祷会、家庭集会での説教を数えると、三千回以上、説教を語ってきたことになります。会衆の人数は最小で2~3人、最大ではおそらく葬儀の時だと思いますが、200人を超える人たちに語ったことだと思います。説教は、会衆というある意味で「マス」(集団)に向かって語ることですが、説教の基本は「対話」です。説教者は大衆に向かって語るのではなく、一人の人に向かって語ります。また対話の意味は、有言無言に関わらず相手からのレスポンスによって成り立ちます。ですから、自分の身をさらす必要があるとともに、語る相手も定かでなければ成り立ちません。実はそういう意味では、相手が特定されない形でのマスメディア、インターネット配信での説教は、純然たる説教ということが、ちょっと難しいことになっています。説教は、単なる知識の伝達ではなく、神さまの愛を伝えることです。神さまはそれを人間を通して伝えようとされました。神さまがあなたを愛している、ということばを、説教者自身が、私もあなたを愛している、という状況の中で宣べ伝えるようにとされたのです。愛は、具体的に愛することによってのみ伝えられるものです。相手もわからないのに、あなたを愛しています、という言葉は、無責任というか、抽象的というか、つまり嘘が付きまとっている感じがぬぐえません。また相手が特定されないので、忍耐する必要がなく、時が良くても悪くても語り続け易いものです。相手が特定され具体化される中にあって、時が良くても悪くても語り続けることには、やはり忍耐が必要なのです。私を知らない今出会ったばかりの人に、そして次の瞬間にはどこかに行ってしまう人に向かって、神さまはあなたを愛しておられます、とは語り易いかもしれませんが、私の過去現在を知り、その所業やしでかしたことを知っている人に向かって(笑)、そしてこれからも共に生きていくことになる人びとに向かって、神さまはあなたを愛しておられます、というのは、簡単なことではありません。また繰り返し語るのですから、またおんなじ話やな、とか思われているのではないかとも予想しながら話すのもなかなかチャレンジです。しかしだからこそ、そこで責め、戒め、勧める、ということも可能となるのだと思います。どんなに有名な説教者よりも語ることのできる神さまの言葉をいただいているのだと思います。
     生成AIで説教をつくることができるのですね。試しに、マタイの福音書、福音、神さまの愛、300字、などと打ち込んで、しばらく待っていると、なんと説教が出来上がっていました。それもなかなか良い説教ができていました(笑)。しかしこれは上記のことからすれば、やはり説教とは言えない、ということになります。
     教会学校の先生がたも、すべてみ言葉を宣べ伝える役割をゆだねられているお互いは、勇気をもって語りましょう。

     また、会衆でもある私たちは、「健全な教えに耐えられなく」なってはいないだろうか、「耳に心地よい話を聞こうと」してはいないだろうか、「自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め」ようとしてはいないだろうか、そうして「真理から耳を背け、作り話にそれて行くような」ことになってはいないだろうか、と自らを戒めていきたいと思います。