私がそれを食べると、それは口の中で蜜のように甘かった

静まりの時 エゼキエル2・8~3・11
日付:2024年05月14日(火)

私が口を開けると、その方は私にその巻物を食べさせ、そして言われた。
「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ、それで腹を満たせ。」
私がそれを食べると、それは口の中で蜜のように甘かった。
その方はまた、私に言われた。
「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばをもって彼らに語れ。
(3・2~4)

 人の子、ここでは預言者エゼキエルのことです。神さまはエゼキエルをご自身のことばを伝える預言者、宣教者として遣わされます。
 預言者、宣教者としての使命を果たすために、神さまご自身がエゼキエルを養い整えられます。「その方は私にその巻物を食べさせ」た。
 エゼキエルはその巻物を食べるために、口を大きく開けました(2・8)。神さまのことばを語る者は、口を大きく開けなければなりません。そうして神さまのおことばを自分自身がいただかなければなりません。神さまからいただくみことばによって、自分自身が養われ整えられなければなりません。
 エゼキエルは、「私がそれを食べると、それは口の中で蜜のように甘かった」と告白します。宣教者にとって、自らが語ることになるみことばは、まず自分自身にとって「蜜のように甘い」のです。蜜の甘さ、すなわちみことばの甘さを知ることなくして、みことばを語ることができません。

 この春にドイツに旅をしたとき、日曜日に参加した礼拝の教会には、はちみつが売られていました。教会の収益になるということで、一瓶買い求めました。ほんのりと花の香りのする甘いはちみつでした。旅をガイドしてくださった宣教師も養蜂ができないかと調べたことがあるそうです。衛生面からかいろいろとルールがあってなかなか難しい、と言っておられました。花が蜜をつくり、それを蜂が集め、人間が収穫する。花や蜂には何かきのどくな気もしますが、おいしいはちみつをいただけることは感謝です。はちみつはただ甘いだけではなく、そこにさまざまな香りと滋養が詰まっています。みことばもまさにその通りなのだと思います。

 聖書の言葉を読む、と一口に言っても、それは口の中で甘く広がる蜜をいただくようなもの、食事をいただくようなものです。
 私たちは食事をいただくときには可能な範囲で環境を整えます。気に入った食器を使います。目に映る景色も食卓にふさわしいものを準備します。食材はあたたかいうちに食そうとします。一気にかけ入れるのではなく、自分の口に合ったサイズに切り分け口に運びます。ゆっくりと咀嚼(そしゃく)します。ひと噛みごとに食材を味わいます。生産者のことに思いが及ぶかもしれません。料理人のことに思いが膨らむかもしれません。噛むごとに食材自体の甘み、うま味が増すこともあります。そうして飲み込みます。飲み込まれた食材が体内に吸収され、私たちは生きる力をいただきます。一人で食べるときは、さまざまな記憶を思い起こしながら、あるいはこれから取り組もうとすることに思いをはせながら食事の時間を過ごします。ともに食卓を囲む仲間がいるならば、近況を語り合いながら、互いの課題を分かち合いながら時を過ごします。
 み言葉をいただく時間もこのように過ごすとよいかもしれません。ただ聖書を知識として吸収しようとするのではなく、味わって読むのです。
 聖書を読むための場所を決めてもいいかもしれません。目に映るものを整える。たとえば聖画、あるいは気に入った絵、写真、景色、花、掛け軸や花瓶などを整えます。耳障りでなければ音楽もいいかもしれません。花かお香などの香りもよいかもしれません。聖書の言葉を繰り返し朗読する、ゆっくりと朗読する。文節で一呼吸置きながら読んでいく。言葉を思いめぐらす。反芻する。そうして十分な理解がなくても、それを心に納める。蓄えておく。一人で読むならば、今までのことを振り返っていく、あるいは朝からの時間を振り返っていく、また朝であればその日一日の歩むであろう道のりをたどっていく。仲間と聖書を読むならば、互いの近況を分かち合いながら、聖書のことばとの結びつきを分かち合う。教えられたこと、疑問に思ったことを可能な範囲で分かち合う。そうしてみ言葉を語ってくださる神さまご自身を思います。同じテーブルについていてくださるイエスさまを思います。その十字架と復活において現された愛を味わいます。

「私がそれを食べると、それは口の中で蜜のように甘かった。」


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