静まりの時
- テーマ:聖霊を待ち望む
- 聖書箇所:黙示録22・12~21
- 日付:2026年05月20日(水)
14 自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。
マタイの福音書5章をはじめ聖書には、幸い、がたくさん書かれています。ここにも幸いが書かれています。自分の衣を洗う者たち、は、幸いである。
自分の衣を洗う。洗濯の仕方をいうのではなく、罪が洗われて身も魂も真っ白になる、ということだと思います。そのような者が幸いであると聖書は語ります。
といっても自分で自分の衣を洗うことは、私たちにはできません。御子イエスのさまの血、すなわちイエスさまのいのちによって、私たちは洗われます。洗っていただくといってもよいと思います。
御子の血によって洗われるという言葉は賛美歌などにも歌われるほど、教会では良く語られる言葉だと思いますが、それがいったいどういう意味であるのかは、いまいち分かり辛いのではないかと思います。
実際に血をもって洗濯するならば、白くなるどころか、赤く染まってしまいますので、そういう意味ではないことは明らかです。
自分の罪に出会うとき、この罪のために御子イエスさまがいのちを捨ててくださったのだ、と信仰を持つことだと思います。そこで御子に対する愛が深ければ深いほど、そのもったいなさと、ありがたさを感じるようになります。もう罪は犯さない、罪のうちを歩むことはしない、とあらたに決意します。徐々に罪から離れて行く。徐々に変えられていく。そうして、自分の衣を洗う、ということが起こります。
ここで、もしイエスさまに対する愛が希薄であれば、自分の罪のために流された御子のいのちの重たさが分かりません。自分の罪の赦しが、機械的なこととしか受け取れなくなったり、あたりまえのことのように錯覚したりしてしまいます。結果、自分の衣を洗う、ということが起こらなくなります。
信仰生活は、イエスさまへの愛を深めていくことである、と思います。イエスさまへの愛を深めるために、礼拝をささげます。祈りをし、聖書を学びます。また兄弟姉妹の交わりを喜びます。すべて、イエスさまへの愛を増し加えていただくためです。