静まりの時 マタイ12・46~50
日付:2024年05月11日(土)
イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。
ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。
イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。
それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」
(46-50)
「外に立っていた」(46)、「外に立っておられます」(47)。
肉親であるにも関わらず外に立っている。肉親ならば誰よりも近くに座ってイエスさまのお話を聞くはずではないか。
あるいは肉親だからこそ外に立っている。自分たちが中に入ってイエスに近づくのではなく、イエスのほうから自分たちのほうに出てくるべきではないか。それが肉親に対する態度ではないか。
外に立つ人。私たちが何かをしようとするときに、そば近くに来てくれる人もいれば、外に立ち続ける人もいます。ともに同じところに立ってくれる人もいれば、対岸で、安全地帯に身を置き続ける人もいます。
教会において外に立つ人。教会の内に立って、牧師や役員と同じところに立とうとする人もいれば、外に立ち続ける人もいます。何もないときには内に立っているけれども、問題がおこり居心地が悪くなくと、外に立とうとする人もいます。もしかすると最初から外に立っていたのかもしれません。逆に、普段は外に立っているように見えて、何か問題が起こると力を発揮してくれる人もいます。内に立っているか、それとも外に立っているのか。何かが起こった時に、それが明らかになるのかもしれません。
牧師であるならば常に内に立つものであるはずですが、実際はそうとも言えないことが起こります。教会を自分の思い通りにコントロールしようとするならば、それは外に立っていることです。内に立っているならば、ともに苦しみともに労する道を選択するはずです。教会はキリストのからだであり、私たちはその部分だからです。キリスト者である、ということは、キリストのからだのうちにある者として生きることです。外に立っていては、もはやキリスト者とは言えないのかもしれません。
「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです」(50)
イエスさまの父、その父なる神さまのみこころを行うこと。その時、私たちはイエスさまの兄弟、姉妹、母となる。外に立つ者ではなく、内に立つ者、内に座る者となる。
神さまのみこころをを行う。神のみこころとはいったい何か。律法に忠実に生きることなのか。善い行いをすることなのか。愛に生きることなのか。いずれにも真理があると思います。
しかしイエスさまはここで、目の前に座っている人たち、すなわち「群衆」(46)に向かって言われました。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです」(49)。
この群衆はいったい何をしていたのか。この時どのような「神のみこころ」を行っていたのか。
彼らはただ、座ってイエスさまのお話を聞いていただけではなかったでしょうか。
神のことばを聞く。ただ静かに聞く。それが「神のみこころ」を「行う」ことである。いわゆる愛の行いも大切です。しかし、神さまのみこころを行うことの第一は、神のことばを聞くことです。神のことばを聞くというがなされていないで、どのような神のみこころがなされたとしても、そこに、イエスさまの兄弟、姉妹、母、すなわち家族が生まれることはありません。神の家族、すなわち教会が教会であるためには、神のみこころの第一のことである「神のことばを聞く」ことが、第一にされなければならないのです。