静まりの時 第一コリント12・12~18
日付:2024年05月08日(水)
12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。
14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
・・・
18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
(12-18)
教会は「キリストのからだ」(エペソ1・23)である。からだが一つであると同時に、さまざま器官、さまざまな部分でなりたっているように、教会もさまざまな「人」で成り立っているが、ひとつなのだ、とパウロは語りました。
同じ一つの目的によって共同体が生まれた場合、その目的によって一つとなる、ということが想像できますが、ここで語られているのは、「一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです」ということですから、信仰の問題です。
私たちの信仰が、キリスト教信仰であるならば、それは「一つである」ということと「多様である」ということが共存するのです。あるいは一つであるということが、誰もが同じ顔をしているという一つではなく、多様性を保ちつつ一つなのです。ここに教会とこの世のあらゆる共同体との違いがあります。
同調圧力が強い環境では、これはなかなか難しいことではないか、と思います。互いの違いを受け入れるということは、自分をなくして相手のようになる、ということではありません。互いの違いを受け入れる、ということは、自分をしっかりと持っていなければ不可能です。
絶対他者である神さまとの出会いがあって、自分を初めて知ることができ、自分を知ることができてこそ、違いのある他者との共存が可能となる、のです。
これには、自分と他者との境界線をしっかりと持つことが重要です。境界線をしっかりと持つことによって、自分を守りつつ、相手を受け止めることができるのだ、と思います。境界線があいまいになると、自分と相手の心の境があいまいになり、自分の考えていることと、相手の心が解け合ってしまい、自分の考えていることが、相手も同様に考えていると思い込んでしまいます。そういう場合、私の考えでしかないものを、「私たちは」という言葉で置き換えてしまい、私の考えは「正統」となり、それに反する考えは「異端」となってゆきます。自分を客観視できなくなってしまいます。
また境界線があいまいになると、逆に、他者の考えが自分の心の中に容易に入ってきてしまいます。自分の考えではないにもかかわらず、まるで自分の考えであるかのようになってしまいます。他者が「正統」で、自分は常に「異端」として存在することになり、自分を否定し、自分を生きることができなくなってしまいます。
それに抗おうとして、また過度に他者を遠ざけようとしてしまい、結果孤立してしまうということも起こりそうです。
違いがある者同士が一つである。それが教会である、ということを見失ってはならないのです。