静まりの時 詩篇23
日付:2024年04月15日(月)
ダビデの賛歌。
1 主は私の羊飼い。
私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ
いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ
御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても
私はわざわいを恐れません。
あなたが ともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖
それが私の慰めです。
5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え
頭に香油を注いでくださいます。
私の杯は あふれています。
6 まことに 私のいのちの日の限り
いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。
私はいつまでも 主の家に住まいます。
(1-6)
共同訳でも読んでみたいと思います。
1 賛歌。ダビデの詩。
主は私の羊飼い。
私は乏しいことがない。
2 主は私を緑の野に伏させ
憩いの汀に伴われる。
3 主は私の魂を生き返らせ
御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。
4 たとえ死の陰の谷を歩むとも
私は災いを恐れない。
あなたは私と共におられ
あなたの鞭と杖が私を慰める。
5 私を苦しめる者の前で
あなたは私に食卓を整えられる。
私の頭に油を注ぎ
私の杯を満たされる。
6 命あるかぎり
恵みと慈しみが私を追う。
私は主の家に住もう
日の続くかぎり。
(1-6 共同訳)
新改訳2017で5節「私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。 私の杯は あふれています」は、共同訳では「私を苦しめる者の前で あなたは私に食卓を整えられる。私の頭に油を注ぎ 私の杯を満たされる」。
以前の新改訳、またこの共同訳で「前で」と訳されている言葉が、新改訳2017になって「よそに」と訳されました。「よそに」とは、ほかの所、別の場所、自分には直接関係のないこと、関心のないこと、という意味の言葉のようですから、やはり「前で」のほうがよいように思います。
敵とは関係のないところで、あるいは敵がいるにはかかわらず、それをないことのようにして、食卓を整えてくださるのではなく、まさに敵の面前において、その最前線において、私たちの主は食卓を整えてくださり、私の頭に香油を注ぎ、さらにその食卓に備えられた私の杯にはぶどう酒を満たしてくださる、あふれるほどに注いでくださる。ダビデはそのように歌ったのだと思います。
敵のいない人生、苦しみのない人生はありません。最大の苦しみは死であると思います。それを「よそにして」、ないもののようにして祝福があるはずがありません。それを目の当たりにしながらも、なお祝福に生きることができる、それが主にある者の人生だ、私たちの主はそのようなお方なのだ、とダビデは歌いました。
だからこそ、「まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来る」「命あるかぎり 恵みと慈しみが私を追う」人生が拓かれるのです。だからこそ、「私はいつまでも 主の家に住まいます」「私は主の家に住もう 日の続くかぎり」との信仰の告白、あるいは決意、あるいは覚悟が生まれるのだと思います。
旅行から帰ってきてあまりゆっくりできていなかったからか、昨夜は10時間ぐらい寝てしまいました(笑)。