日: 2026年9月3日

  • 彼は粗布をまとって伏し、打ちひしがれて歩いた

    静まりの時

    • テーマ:主に仕える人
    • 聖書箇所:第一列王記21・20~29
    • 日付:2026年09月03日(木)

    25 アハブのように、自らを裏切って主の目に悪であることを行った者は、だれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。
    ・・・
    27 アハブはこれらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に粗布をまとって断食をした。彼は粗布をまとって伏し、打ちひしがれて歩いた。
    28 そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。
    29 「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」

    この「彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す」のことばは、第2列王記9章21節から37節に成就されています。

    アハブほどの罪びとは後にも先にもいないということですが、しかしアハブが悔い改めると、主はアハブをゆるされました。やや簡単におゆるしになられたような印象を受けますが、主は罪に対して厳しいお方であると同時に、罪びとをゆるしたいと心の底で思っておられるのだと思います。御子を十字架にはりつけにしてまでも私たちをゆるされたほどのお方なのです。

    以外にあっさりと悔い改めたアハブですが、そのアハブの悔い改めを聖書は次のように記しています。「自分の外套を裂き、身に粗布をまとって断食をした。彼は粗布をまとって伏し、打ちひしがれて歩いた」。

    この「歩いた」を、ただウォーキングした、という意味だけではなく、人生の歩み、などという言葉で使われているように、生きる、ということをも含んでいると理解すると、これは単なる行為ではなく、生き方そのものであると考えてもよいのではないか、と思います。

    • 「自分の外套を裂き、身に粗布をまとう」
    • 「断食をする」
    • 「粗布をまとって伏す」
    • 「打ちひしがれて歩く」

    プライドの一切をすてて、身も心も、主の前にへりくだる。その人の、その人生のどこをとってもこのへりくだりがあらわされている。それが聖書の悔い改め、ということです。

    ということは、悔い改めは信仰を持つ最初の一点ですることだけではなく、また何か罪を犯したときにすることだけでもないようです。信仰を持った、信仰に生きている、ということであるならば、常に悔い改めている、ということなのです。

    主にある者は、朝に悔い改め、一日を悔い改め、夕に悔い改めます。礼拝で悔い改め、一週間の祈りで悔い改めます。キリスト者は死ぬまで常に悔い改め続けます。漕ぐのを止めた自転車が進むことができなくなるだけでなく、倒れてしまうように、悔い改めを止めたならば、それはイエスさまを信じること、信頼することを止めた、ということです。それは、イエスさまを信じることを止めて、信仰を持つ前の状態、すなわち、自分を自己中心的に信じることをしている、という状態になってしまったということなのです。