私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • みずからを隠す神

    〔わが魂はあなたを慕いあえぐ〕

    2014年5月24日(土)

    「わたしの仇は、骨も砕けるほどにわたしをののしり、一日中わたしにむかって『おまえの神はどこにいるのか』と言う。」(詩篇42:10)

    神をイエス・キリストの十字架において見いだす者は、神がこの世ではみずからを隠しているということを、そして、われわれが極めて遠くから神を信じているのに、神は自分の最も近くにいるということを知るのである。そしてさらに、神を十字架において見いだす者は、神が自分を許していてくれるということを知るゆえに、みずからも、いかなる敵をも許すのである。

    ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
    村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、256頁f。

    神さまを十字架において見いだす者。それがキリスト者です。
    神さまを十字架において見いだす者は、神さまがこの世ではご自身を隠しておいでになるということを知ります。逆に十字架において見いださない者は、神さまはこの世ではご自身をお隠しになられない方であると思いこんでいます。
    神さまを十字架において見いだす者は、私たちが極めて遠くから神さまを信じているのに、神さまは自分の最も近くにおられることを知るのです。自分よりも自分の最も近くにいてくださることを知るのです。逆に十字架において見いださない者は、神さまが近くにいてくださることがわからないのです。

    そして、十字架において神さまを見いだす者は、神さまが自分を許して下さっていることを知ります。それによって自分もどのような敵をも許すのです。逆に十字架において神さまを見いださない者は、自分が神さまに許されていることがわからないので、敵を許すことができないのです。
    この場合「許す」という感じが使われていますが、おそらく意味としては「赦す」のほうが適切なのだと思います。

    どのような理由があるにせよ隣人を赦すことができない、あるいは自分を守るために赦すどころか攻撃をする者は、十字架において神さまを知ることができていない者であり、それゆえ自分の最も近くに神さまがいてくださるということもわからない者です。赦すことは難しいことですが、少なくとも赦しの心に変えられるように格闘する者、神さまに変えていただけるように祈る者でありたいと思います。そうでなければ祝福された人生を歩むことができず、いつまでたっても悲しみとみじめさ、孤独の中に歩むこととなってしまいます。

    十字架において神さまにお出会いしたいと思います。

    (祈り)
    神さま、十字架においてあなたにお出会いさせてください。