私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 真実の都

    静まりの時 ゼカリヤ8・3~12
    日付:2023年03月10日(金)

    ──主はこう言われる──
    わたしはシオンに帰り、
    エルサレムのただ中に住む。
    エルサレムは、真実の都と呼ばれ、
    万軍の主の山は、聖なる山と呼ばれる。
    (ゼカリヤ8・3)

     神さまが私たちの地に住んでくださる。

    「キリストは、神の御姿であられるのに、
     神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
     ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
     人間と同じようになられました。」(ピリピ2・6,7)

     それによって「真実の都」「聖なる山」と呼ばれる。真実とは、神さまがへりくだってこの地に住んでくださることによって実現するのです。そうしてそこが聖なる山と呼ばれるのです。聖とは神さまのものとされた、ということですから、罪によって混沌としたこの地を、神さまは愛して下さって、独り子イエスさまを降し、神さまが住むところとしてくださいました。そうして「平安の種が蒔かれ」(12)ます。
     真実、真理。それは謙遜のことである、とアビラのテレジアは語ったとか。いくら正しいことが語られても、高慢、傲慢の中に語られているならば、それは真実、真理ではありません。謙遜にこの地に来て下さった神さまによって、真理は打ち立てられるのです。

     「人の働きに報酬がなく・・・」。努力に報われることがない、いくら頑張っても、誠実に生きても、それが報われることのない世界。そのような地に平和はなかったのです。
     「わたしがすべての人を互いに争わせたからだ」。新共同訳では「わたしがすべての人を 互いに思うままにさせておいたからだ」。人がそれぞれ自由に、自分の好きなように生きる世界であったので、結局、平和のない世界となってしまった、ということでしょう。

     そこに「平安の種が蒔かれる」。神さまが住んでくださり、平和の種を蒔いてくださる。それは、正直者が馬鹿を見ない世界、ちゃんと帳尻の合う世界を築いてくださる、そのために神さまはこの地にへりくだって来て下さる、住んでくださる、というのでしょう。

    「これがあなたがたのなすべきことだ。あなたがたはそれぞれ隣人に対して真実を語り、真実と平和をもたらす公正さをもって、あなたがたの門の中でさばきを行え。」(16)

     神さまがこの地にへりくだって住んでくださる。その地で私たちがなすべきことは、秩序ある社会を築くことです。
     教会では、愛と赦しとが語られます。愛と赦しは、ある意味で自由が保障されることの中に実現することです。しかしそれは無秩序の中にではありません。無秩序であれば、かえって自由は保障されなくなり、結局、愛と赦しは実現しなくなるでしょう。

    「ユダの家よ、イスラエルの家よ。
     あなたがたは国々の間でのろいとなったが、
     同様に、わたしはあなたがたを救う。
     あなたがたは祝福となる。
     恐れるな。勇気を出せ。」(13)。

     国々の間で「のろい」となってしまったユダ、イスラエル。しかし神さまが住んでくださり、平和の種を蒔いてくださり、まことの秩序をもたらしてくださる時、「祝福」となるのです。それが「救い」である、といいます。恐れず、勇気を出して今日も一日の歩みを進めたいと思います。

     昨日は、団体総会のための資料作りに、結局一日をかけることになりました。相変わらず誤字脱字だらけですが、とりあえず先生方に確認していただけるところまでこぎつけました。また同時にある教会が不動産を取得しようとしているので、そのための団体関係の手続きを開始しました。未法人の教会の不動産取得には団体が対応することになるので、議事録や公告の関係でちょっといそがしくなっています。根を詰めていると息苦しくなってしまうので、深呼吸をしながらですが、暖かい日が続いていますので助かっています。感謝です。

    PXL_20230307_072748711.MP