静まりの時
- テーマ:主のいやし
- 聖書箇所:マルコ3・1~5
- 日付:2026年09月07日(月)
1 イエスは再び会堂に入られた。そこに片手の萎えた人がいた。
2 人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
3 イエスは、片手の萎えたその人に言われた。「真ん中に立ちなさい。」
4 それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。
5 イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。
会堂に片手の萎えた人がいました。会堂はすべての人が集うところです。集うことの出来るところです。
人びとは、この片手の萎えた人をイエスさまがいやすかどうかをじっと見ています。安息日に「いやし」を行うことは律法に違反することだったので、じっと見ていたのは、イエスさまを訴えるためでした。このとき片手の萎えた人は、人びとのイエスさまを試す道具とされていました。
イエスさまは、おそらく片隅にいたであろうその片手の萎えた人を真ん中に招かれます。そしてこう言われました。
「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」
彼らは黙っています。人間の沈黙には二種類があるようです。主に心開かれた沈黙。そして主に対して心閉ざされた沈黙。私たちはどちらの沈黙に生きるのか。
主は黙っている彼らに見回して、その人に「手を伸ばしなさい」と言われ、いやしを行われました。
「イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら」。このときの主のお心が三つのことばで記されています。
- 怒る
- 嘆く
- 悲しむ
かたくなな人間の心をご覧になられた神のおこころはこの三つに明らかにされています。人間の罪をご覧になられる神は、怒るキリスト、嘆くキリスト、悲しむキリストなのです。
私たちが自らの罪を知るためには、この三つのキリストに出会わなければなりません。
そしてこの三つのキリストに出会うところに、いやしがあります。