我らに罪をおかす者を 我らが赦すごとく

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〔我らの御父 主の祈り〕
2015年3月7日(土)

これは、神の赦しを得るために、私たちが自らに置かざるをえない一種の前提条件でしょうか。いいえ。それは必然的な、決定的な「徴(しるし)」。神の赦しを理解するための判断の基準であります。自分が神の憐れみに委ねられていると、神の赦しなくしては存在しえないと、そう知っている人は誰でも、このような経験を体験した人は誰でも、自分を傷つけた他の人びとを赦すよりほか、なしえないからです。
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私たちを傷つける人びとの負債が非常に大きく思われるときですら、彼らの罪は相変わらず神に対する私たちの罪よりは限りなく軽いのです。かくも大きな負債者である私たちはーこの小さな事をせず、私たちを傷つけた者たちを赦さないならば、どうして私たちに対する神の赦しを期待しうるでしょうか。
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私たちを傷つける人を見る際に、少々ユーモアを保ちましょう! しかし他の人びとのために赦しの、この小さな自由の行動力を持ちましょう! この行いに直接、良きキリスト教騎士の道徳的武装の一片を見る必要はありません。私たちを誇らしく強くなしうるのはヘルメットでもサーベルでもなく、飾る必要のない何かです。この全く小さな自由を持たない者は、神の赦しに対して近づくことはできないでしょう。
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私たちは、さあ立て! 赦せ! という説得を受けているのではなく、そうではなくて神の赦しを受けていれば人をして赦さしめる、という単純な確認の前に立つのです。
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私はこの小さなことを人にする義務を拒むことはできません。そんなことをしたら、神の赦しを受けるに相応しくなくなります。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、141f。

神さまの前にある私の罪と、私に向かってなされた隣人の罪と、どちらが重たいのかというと、バルトは、神さまの前にある私の罪のほうが、比べようもなくはるかに重たいのだ、といいます。
しかし私たちはこの逆をいつも考えているふしがあります。少なくとも私は、私に向かってなされた隣人の罪のほうが大きいと思ってしまっているのではないか、ということが多いのです。
ですから、この主の祈りが分からなくなってしまうか、あるいは、自分が赦されるための前提条件のように思ってしまうのです。

現実は、神さまの前にある私たちの罪のほうが大きいのです。そしてその大きな罪を神さまはイエス様の十字架と復活によって赦してくださったのです。この神さまの赦しを学べば学ぶほど、隣人の私に対する罪を赦す、あるいはその罪から解放される、という経験をします。赦さないぞ、と思い込んでいることから解放されるのです。

隣人の罪を赦さないぞ! と凝り固まっているときは、「自分の受けた傷に長いこと、くよくよ留まる」ことであり「それを楽しんだり」しているのです。

赦さないぞ! と怒りの中にある人の顔はなんと醜いことでしょう。そしてその怒りの感情は本人の思いを超えて重大な問題を生み出していきます。怒りの中にとどまっているのは、心の底で「それを楽しんでいる」のです。人間はなんと度し難い罪びとでしょうか。

ただ、神さまの前に積まれた私の大きな大きな罪が、神さまによって赦されているということを、単純に、素直に喜びたいと思います。人のことはどうでもよいことです。このことが分かると、自分を傷つけた他の人びとを赦すほか、なしえません。

(祈り)

神さま、自らの罪の大きさを学ぶことができるように信仰を与えてください。自らになされた隣人の小さな罪を赦す者につくりかえてください。

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