〔我らの御父 主の祈り〕
2015年3月6日(金)私たちは神に対して負債があります。
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神の子らである私たち、神の言(ことば)により召され、神賛美に仕えることが許されている私たち、人間イエス・キリストの兄弟である私たちは、神に負い目があることにおいて、破綻しているのです。
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神の協力者であると要求がましく言うとは、私たちは何者なのでしょうか。
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「赦す」とは何を意味するのでしょう。純粋な、理想的な場合ではその意味は、私たちの負債者が私たちに何ら不正は犯さなかったかのように見なすことです。負債者にその過ちの責任を問わず、彼が落ち込んで、自らを見ているこの犯罪の厳しさを彼に指摘し非難をしない。逆に、白紙で無垢な側面で彼と再び始める。彼に新しいチャンスを与えるのです。
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私たちを赦したまえ! この願いは私たちの側のありとあらゆる要求を排除します。
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この権利は、神の自由な憐れみの権利でしかありえません。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、139f。
罪びとでしかない私たちが、神さまに向かって、赦してください、などということがどうして言えるのでしょうか。
罪の赦しは、ただ神さまの自由な憐れみによってあることで、この権利は神様だけがお持ちになっておられるのです。
その神さまが、主の祈りにおいて、罪の赦しを願うようにと私たちを招いていてくださるのです。なんともったいないことでしょうか。罪の赦しを祈るごとに、決して祈ることのできなかった祈りの言葉を、イエスさまが与えてくださったその恵みに心があつくなります。
(祈り)
神さま、私たちの罪を赦してください。
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