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めぐみのパンくず

というのは、すべての人を救う神の恵みが

現れ、”  テトスへの手紙2:11

◎11節と13節に二度「現れ」と言う言葉が書かれています。しかも「突然現れる」ということが。 

イエスさまの初臨と再臨を表しているのです。

◎クリスマスは、世界中で祝われますが、神の御子の誕生を心からお祝いする人ばかりではありません。このすべては、そう言った人々をも含めた万人救罪論ではありません。奴隷であれ、異邦人であれ、また、身分、人種、年代を超えて~神さまは「すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」Ⅱペテロ3:9 と言うすべての人に現れた神の恵みなのです。信仰者には心の中で「イエスさまがある時、突然救い主だとわかった」と言う人が大勢いると思います。

◎そこで二度目の「現れ」ですが、これは再び神の民を未国へ迎えるために現れるイエスさまです。キリスト者の生涯は初めと終わりがこのイエスさまによってもっているのです。

◎そのイエスさまによって神の子とされ、天国を待ち望むキリスト者の生活、すなわち現在をどう過ごすかが書かれています。「不敬虔とこの世の欲を捨て」と言うことと「慎み深く、正しく、敬虔な生活をせよ」と後者の三つは自分自身、隣人、神に対しての麗しいふるまいですね。過去は去り、未来は神さまの手にあります。そこで、キリスト者にとって大切なことは「今」です。今の信仰生活です。この生活を歩むために、イエスさまはこの地上に生まれ、キリスト者を救いに与らせてくださいました。二つの現れを大切にしたいと思います。

めぐみのパンくず

そして、その子供の手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳していえば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)”

                 マルコ5:41

◎「私の小さい娘が死にかかっています。どうか、おいでください・」と足元にひれ伏した父親の願いに応え出かけられた主。しかし途中で長血の女の癒しの事が起こりました。父親は一刻も早く娘のところに来て欲しいと、もどかしい時間帯であると同時に、イエスさまの癒しの力を目の当たりにする期待にもなりました。

◎しかし、使いの者が、少女がなくなったことを知らせに来て、イエスさまに来てもらう必要はないことを告げます。イエスさまは、父親に「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われました。恐れるな、信ぜよとは何と力強いものでしょう。

◎泣き叫び、取り乱し、わめいている人々に向かって少女は死んだのではなく、眠っているのだと言われます。イエスさまを信じる人々にとって死ぬのではなく、眠るのだと言うこの宣言は何という喜びと希望ではないでしょうか。

◎「タリタ、クミ」娘は12歳、イスラエルでは一人の女性として出発の年齢です。少女は新しい門出に生かされたのです。

◎長血の女は12年患いました。少女は12年、蝶よ花よと育てられました。同じ12年でも全く違った年月でした。しかし、悲しみは、苦しみは誰にでも訪れることを思います。しかし、主あっては同じように癒し、生き返らせなさる力の救い主なのです。 

めぐみのパンくず

「お着物にさわることができれば、きっと直る。」と考えていたからである。” マルコ 5:28

◎ゲラサの狂人を癒された主は再び向こう岸に渡られます。そこにはイエスさまを必要とする二人の人が待っていました。そのうちの一人に、12年間も「長血」を患い続けた女性がいました。女は多くの医者に掛かりましたが、良くなるどころかかえって悪くなる一方で、財を使い果たしました。それだけでなく、宗教的にも不潔な女として人々との交わりを禁じられていたのです。病と心の孤独はどれほどつらかったことでしょう。

◎その女がイエスさまのことを耳にして「せめて(口語訳)お着物にでもさわればきっと直る」と信じて衣のすそに触れたのでした。大勢の人が取り囲みイエスさまに(キリスト教に)触れています、しかし、信仰のためではありません。

◎イエスさまはご自分の身体から力が抜けていくのを感じられ「誰がさわったのか」と尋ねられます。女は①恐れおののき②身に起こったことを知り③イエスさまの前にひれ伏し③真実、身に起こったことをあますことなく告白したのです。

◎癒された女にイエスさまは「あなたの信仰が直した」と言われ、その後「安心して帰りなさい、病に気かからず、すこやかでなさい」と励ませれました。安心とはヘブル語のシャローム、ギリシャ語のエイレーネで、心の奥底からあふれ出る安心を表します。イエスさまが弟子たちに「残していく」ヨハネ14:27と約束された平安です。女はどれほど力強く思ったことでしょう。

めぐみのパンくず

あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんな大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。”          マルコ 5:19

◎夕方に出発したイエスさまと弟子たちの舟がゲラサについたのは深い夜でした。ゲラサには石灰岩の洞窟が多くあり、そこには死体が墓代わりに入れられていたと言われます。その墓場を住み家にしている男が一人いました。

◎「レギオン」と告白していますが、ローマの一軍団ほどの数の悪霊がこの男の心を支配していました。ですから、この男をつないでおく鎖、足枷もありません。大声で昼夜を問わずわめき、自傷行為もしばしばでした。

◎イエスさまはこの男一人のために、向こう岸に渡られたのです。彼の口を通してレギオンが語ります。彼らはイエスさまが「いと高き神の子」であり、悪霊をも支配されることを知っているのです。ですからこの地方から「追い出さないで下さい」と願います。そして許され豚の軍団に入りました。しかし、驚いた豚はなだれを打って海に飛び込みました。

◎イエスさまによって、裸でいた男が服を着、荒れ狂っていた心が正気に返りました。イエスさまの救いに感極まったのでしょう。お供をさせて下さいと願いますが、イエスさまは上のみことばを語りなさいます。一番心配していた家族、友に神さまがしてくださったあわれみを伝えなさいと。

◎それに反してゲラサの人々は、人間よりも豚が大事だったのでしょう。イエスさまに出て行ってくれと言うのです。残念なことです。

めぐみのパンくず

イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」”       マルコ4:40 

◎主は主に従う者に、「向こう岸に渡ろう」と言われご自身が先に舟に乗られます。すると(マルコ伝の特徴ある言葉)激しい突風が吹いてきました。ガリラヤ湖は嵐で有名です。ハウランの高地、テラコニテスの台地、ヘルモン山に圧縮された空気は狭い空間から非常な勢いで突進してくるのです。「風は荒れ狂う悪魔のごとく、小舟はただ中の木の葉に似たり~」と新聖歌で歌いますがそのごとくに~

◎波をかぶって水でいっぱいになった舟。慌てる弟子たちに対してイエスさまはともの方で枕をして眠っておられました。肉体的にお疲れになっていたのでしょう。そのイエスさまを起こして「おぼれて死にそうでも何とも思われないのですか」と訴えます。

◎弟子たちの態度に対して、イエスさまの権威あるおことばはまず自然界に発しられます。「黙れ、静まれ~この言葉は汚れた霊に向かって言われたのと同じ~」と。イエスさまのお言葉一つで静まる自然界!

◎そして今度は弟子たちに、どうしてこわがるのか、どうして信仰がないのか。信仰がなくなると恐れに包まれるのです。ここではノー・フェイスですがマタイではリトル・フェイスです。信仰は小さくなったりなくなったりするのです。

◎しかし、どんな時にもイエスさまが私たちと同船していて下さるのです。キリスト丸に乗っていることを、いや、乗せられていることを忘れずに。 

めぐみのパンくず

『神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、・・

それはからし種のようなものです。』マルコ4:26、31

◎イエスさまは神の国を、種自身の成長とその広がりを語られます。まず種自身の成長を見ましょう。人が地に種を蒔きますと、その種は成長していきます。人が寝起きしている間に成長していくのです。「種が芽を出し、初めに苗、次に穂、そして穂の中に実が入ります。」vs27、28.(現代は微速度カメラでその成長ぶりを見られないわけだはありませんが)どのようにして成長するかはわかりません。

◎熟した実は収穫されます。このことは個人の死、世界の終末を表しますが、滅びの世界ではなく、イエスさまの再臨によって新しく入れられる転換を表しています。キリスト者はこのことに対して「希望を持ち、ゆっくりと静かなこころで神の霊に任せて」おればよい。」と言うことでしょう。

◎からし種、それは当時、知られた最も小さい種でした。それが「人間が枝の上に上り馬がその枝に休むほどになる。」のです。福音がパレスチナに始りアジアからヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、そして東の果てなる日本にまで届きました。全世界に広がったのです。それは広域だけにとどまらず、あらゆる年代を超えてです。ある宗教では、救いの対象を成人した男子にだけと制限します。しかしイエスさまは『子供たちを私のところに来させなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である』と言われました。また、あらゆる人種を超えてです。

ハレルヤ!

めぐみのパンくず

聞く耳のある者は聞きなさい。」また彼らに言われた「聞いていることによく注意しなさい」。”

         マルコ 4::23、24

◎イエスさまは、神の国の奥義について「種まきの話」の意味を弟子たちに語られました。引き続いて「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。

◎まず燭台のあかりの話をされますが、神の国の奥義は隠されることがないと言われます。あかりは升の下に置くと消え、寝台の下に置くと火事になります。そんなことは誰もしません。神の国の奥義は弟子たちを通して隠されることなく、燃やされていくのです。キリスト者は与えられている神の国の奥義を輝かせていく存在です。

◎「聞いていることに注意しなさい」原語の聖書は「誰でも、見よ聞け」と命令形で書かれています。聞くことが奨められている中で、「見よ」はどう言うことでしょう。イエスさまが語られる奥義を「見ている如く聞け」と言うことでしょう。やがてそれは結果となり表れます。世の量でなく、神の国の標準で物事を量っていくとき、自らも量ったように量り返される。これが神の国の原則です。

◎VS25は結論のような言葉ですね。「信仰にも、ことばにも知識、熱心、愛にも恵みのわざにも」Ⅱコリント8:7「持っている人」が勧めの世界です。現在は格差社会と言われますが、イエスさまの時代、貧富の差の激しさは大きかったと言われます。この地上の見えるところがそうであれば、神の国の世界はそれ以上のものがあると言われます。しかし、それは喜びの格差、恵の格差、神さまに愛されている信仰の格差です。

めぐみのパンくず

良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。”    マルコ4:20

◎キリスト者として何度も聞き、味わったイエスさま

のたとえ話です。種はみことば、地とは聞く人の心ですね。イエスさまは12弟子たちと共に従って来た人々に、億義「ミステーリオン」として解き明かされました。

◎道ばたに蒔かれた種。パレスチナの畑にロバの背に種の穴の開いた袋をのせ歩きながら、落ちるままに蒔きました。ですからある種は道ばたに落ちたのです。その種は鳥(サタン)の餌になってしまい、それっきりです。みことばを聞いて考えるところまで行かない人々です。

◎ 石地に蒔かれた種、石灰岩の棚状地層で覆っている薄い土壌です。そこに落ちた種は問題なく芽を出すのですが、根を張ることができません。みことばを聞いても深く考えないと根は降ろされないのです。

◎いばらの地に蒔かれた種、パレスチナの農夫は怠け者が多く、雑草の根は刈らず、時には表面を焼くだけでした。雑草の、いばらの成長は早く、あっという間に蒔かれたものをふさいでしまいます。イエスさまはこの状態を「世の心づかい、富の惑わし、いろいろな欲望」と言われました。

◎最後に良い地です。良い地は手入れが必要です。そのごとく、聞かなければならない、受け入れな刈ればならない、適応(実践)が必要です。

イエスさまの語って下さった、みことばは自分に語って下さっていると受け入れ、宝物のように大切にし、従っていくところに豊かな実りがあるのです。

めぐみのパンくず

神のみこころを行う人はだれでも、わたしの

兄弟、姉妹、また母なのです。” マルコ3:35

◎ベルゼブル論争の前、イエスさまの身内の者が、間違った噂を聞き心配して出てきました。今度はイエスさまの母と兄弟たちがやって来たのです。その知らせがイエスさまに告げられると、イエスさまは上のみことばを語られました。

◎母マリヤはイエス様誕生の時から幾度かイエスさまのことを思いめぐらす人でした。イエスさまの公生涯出発は十分理解していたはずなのに・・子の悪評に対する母としての心配に揺らいだのでしょう。

◎そのような時、イエスさまは地上の家族関係を超えて、永遠に続く神の家族関係の条件を語られたのです。「神のみこころを行なう人」と。それは、イエスさまと共通の経験、興味、服従、目的を持ったもの、とある学者は言いました。そこで私たちも考えて見ましょう。

◎イエスさまとの経験とは、十字架の経験です。もちろん本物の十字架にではありません。イエスさまに赦しをこうた十字架の犯罪人のように、私の罪のために死んでくださったという経験です。

◎共通の興味、みことばへの興味、聖徒へのあこがれ、信仰者としての興味です。

◎共通の服従。イエスさまの御足の後をしたがって行った。時には厳しい道も悲しみの涙を流しながらもイエスさまに従う信仰の歩みです。

◎共通の目的は御国~天国の希望です。

これらのことの中で信仰生活を主と共に歩む者が御心を行う人ではないでしょうか。

めぐみパンくず

しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。”

            マルコ3章29節

◎ナザレの大工として30歳まで過ごされたイエスさま。そのイエスさまが仕事をすて親族をすてて、一見、奇妙に見える集団を引き連れて行動されることに、家族は不安になり、中には「気が狂った」と言う人まで出てきました。

◎またエルサレムから下って来た律法学者は、イエスさまの悪霊追い出しのみわざを「ベルゼブル(ハエの神の意)悪霊のかしらによって悪霊を追い出している」と批判したのです。

◎イエスさまはそれに対して、悪霊の内輪もめでない、内輪もめは分裂を引き起こすだけだと言われ、むしろご自身は悪霊のかしらを縛るために来たのだと言われます。そして、イエスさまのみわざは悪霊どころか、聖霊のみわざであることを語られるのです。

◎「人はその犯すどんな罪も、神を汚すことも赦されるが、聖霊を汚す者は誰でも永遠に赦されることがない。」と言われます。この意味は?

◎イエスさまは2千年前、十字架に架かり、復活されました。現代の私たちがそのことを信じることが出来るのは。聖霊の働きによるのです。イエスさまの十字架の救いも、神の子としての成長も、そして天国へ迎え入れられることも、みな聖霊のお働きによるのです。ですから、「聖霊を汚す者は永遠に赦されることがない。」と言われるのです。キリスト者は聖霊と共に歩む者です。この「助け主」ヨハネ16:と呼ばれるお方にいつも信頼して前進したいものです。