月別アーカイブ: 2014年5月

めぐみのパンくず

恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ロバの子に乗って。」” ヨハネ12:15

◎世界の歴史を見て、戦いに勝利し凱旋する時の王が、ロバに乗ってパレードをしたということはありません。

立派な堂々とした白馬に乗ってでしょう。

◎全世界の王であられるイエスさまがエルサレム(いと高き神の都)に入場される時の乗り物は雌の子ろばでした。人々はしゅろの木の枝をとり「ホサナ」の歓声をもってこのイエスさまをお迎えしたのです。

◎ロバに乗られたのは、平和の王としての姿でした。世の王は白馬にまたがって威風堂々と入場するでしょう。しかしイエスさまは全世界の平和の君としてエルサレム「いと高き神の都」に入場されるのです。信仰者はこのイエスさまを迎えます。永遠の平和をもたらすために来て下さった方を。

◎私たちの側からも神さまとの平和条約をしっかりと結んでおかなければなりません。罪が赦され義とされて、神の子とされた平和をもってお迎えするのです。

◎ロバを見てみますと、ロバは「頑固」の象徴です。しかしイエスさまをお乗せする時、こころは砕かれ、柔和な戦いのない者として、イエスさまをお乗せ出来るのです。

◎16節を見ますと「初め、弟子たちはこれらのことがわからなかった」とありますが「イエスが栄光を受けられてから」その意味がわかったと記されています。

イエスさまが、全世界の平和の君であることがわかったのは、イエスさまが十字架に架かり復活された後のことでした。

◎ラザロの復活を見た大勢の人々は死をも治められる平和の君とし後に証しするようになります。単なる平和ではありません。罪が赦され義とされて、永遠のいのちをいただける平和です。この王をお迎えしているのです

めぐみのパンくず

“サムエルの母は、彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに、その年のいけにえをささげに上っていくとき、その上着を持っていくのだった。

Ⅰサムエル2:19

聖書にはしばしば、こどもがなかなか与えられない夫人の話が出てきます。アブラハムの妻サラがそうであり、サムソンの母がそうであり、バプテスマのヨハネの母がそうでした。ハンナもなかなか子供が与えられず、涙の祈りの中でようやく与えられたのがサムエルです。ハンナは持てる限りの信仰と愛情によってサムエルを育てました。

◎しかし神さまと約束した通り乳離れした時、サムエルを宮の祭司エリのところに連れて行き主にささげます。

◎宮の環境は決して良いものではありませんでした。祭司「エリの息子たちは、よこしまな者で」と聖書は記します。そんな中でもサムエルは悪影響を受けることなく育ちました。母の祈りによって守られていたのでしょうか。

◎距離的に離れた母と子でありましたが、その心は主にあっていつもつながっていたと思います。麗しい母の振る舞いですが、毎年宮に上るたびにハンナは、サムエルのために小さな上着を仕立てて神さまへのささげものと共に持って行きました。子の成長を夢見るように、信仰によって見つめていく母の姿です。毎年、身も心も大きくなっていく息子の姿を見る喜びがあふれます。

◎信仰者にとって理想の母ハンナ。子育てのよきモデルであると思います。それと共に、母の愛は神さまの愛であることを覚えたいのです。使徒パウロは「母がその子供たちを養い育てるように、優しくふるまいました。」Ⅰテサロニケ2:2と語り、イザや書では神さまご自身が「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め」イザヤ66:13と語って下さってます。聖書の神は父なる神さまですが、その御性質において神の子供たちを養われる時、母のごとくありたもうのです。

◎救ってくださったのみか、み言葉の乳を与え(Ⅰペテロ2:2)、成長させ(Ⅰコリント3:7)、義の衣を着せ(マタイ22:11)、「あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい」(コロサイ3:12)とイエスさまの品性の実を着せて下さるのです。

神さまに感謝し、母の恩を忘れない私たちでありますように

めぐみのパンくず

“マリヤは非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油の香りいっぱいになった。”ヨハネ12:3

◎イエスさまが十字架に架かられる一週間前の出来事です。たびたび通われたべタニヤの家にもう一度身を寄せられました。姉のマルタは相変わらず家事に忙しそうです。しかし、以前と違うことは、文句を言わずせっせと自分のなすべき分をなしていることです。弟ラザロはイエスさまと食事を共にするために座っていました。また「大ぜいのユダヤ人がやってきた・・ラザロを見るためであった」vs9と記します。信仰による復活を心から信じてすごす人の所には人が集まってくるのでしょうか。

◎マリヤは高価な女性の宝物と言えるナルドの香油をとって、イエスさまの足に塗り、女の命ともいえる髪の毛で拭いました。イエスさまのお言葉によれば「わたしの葬りの日のために」してくれたのだと。以前イエスさまの膝元でみ言葉に聞き入った時、イエスさまが自分の罪の為に十字架にお架かりになることを深く覚えたのでしょうか。マルコの福音書では「わたしのために、りっぱなことをしてくれた」14:6とイエスさまは喜ばれています。マリヤにとってはただ十字架への感謝のあらわれだったのでしょう。

◎香油の香りは家の中にいっぱいに広がりました。キリスト教臭さではなく、キリストの香りが満ちたのです。教会は、クリスチャンホームはこの香りに満たされていたいものです。「木犀は九里、沈丁花は三里」とその花の芳香性の届く範囲が語られて来ました。マリヤがささげたナルドの香油の香りはべタニヤの家にとどまらず、全世界に放たれているのです。「まことにあなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が述べ伝えられるなら、この人のしたことも語られて、この人の記念となるでしょう」マルコ14:9と。

◎そんな中にも、邪魔は入ります。イエスさま一行の会計係であったユダが金銭をごまかしていましたが、そのことをごまかす如く社会福祉家のようなことを言います。「貧しい人に施した方が良い」と。そのことが決して悪いと言われるのではありません。第一のものを第一とする原則をここでもイエスさまは語られるのです。まずイエスさまに、しかも十字架で死んでくださったお方に・・が第一なのです。