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めぐみのパンくず

さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。”

            マルコ3章13、14節

◎イエスさまはその働きにおいて非常に重要な時が来ていることを覚え、そのメッセージを広げ永続させることが必要と思われました。そこで弟子たちを集め、一緒に住むために召し、遣わすためにメッセージを与え、力を授けられたのです。

◎弟子たちの名前を見てみましょう。まずシモンが出てきますが、彼はペテロと命名されます。初代教会の中心的人物にやがてなるところのシモン(小石)をペテロ(大岩)と呼ばれました。

◎次にヤコブとヨハネの兄弟ですが、彼らに「ボアネルゲ「雷の子」となずけられました。この二人は激しい性格の持ち主だったのでしょう。後にサマリヤの人々がイエスさまを受け入れなかった人たちをイエスさまに「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」ルカ9:54と言うほどに。しかしこの「雷の子」たちが愛の人に、また弟子たちの最初の殉教者となるまでに変えられます。

◎マタイは孤独な取税人、熱心党員のシモンは徒党を組んで外国人からの、くびきを解放しようとした人、バラエティにも飛んでいます。

◎しかしながら、悲しいこともマルコは伝えます。この弟子たちの中に、イエスさまを裏切ることになるユダが入っていたのです。新聖歌404番3節「ユダになるまじ」との警告を心したいと思います。

めぐみのパンくず

『安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日の主です。』マルコ227,28

◎安息日は神さまがこの世界を創造され、7日目に休まれたところから始まりました。正しい意味で安息日が行使できれば良かったのですが、ユダヤ人(パリサイ人)たちは間違った理解をしていたのです。二つの点においてその間違いを見ます。

◎第一は弟子たちが麦畑で穂を摘み食べ始めたこと、第二はイエスさまが安息日に手のなえた人を癒されたことに対してです。麦畑で穂を摘んで食べることは(刈ってはいけない)許されていました。しかし、安息日にしたことが問題となりました。イエスさまはかってダビデが空腹の時、祭司しか食べられない食物を食べたことをあげ、神さまは無慈悲なお方ではないことを示されます。

◎手のなえた人の癒し。安息日において、死地にある人以外は、治療できないことになっていたのです。イエスさまはこのことの間違いを示すため、その人を「真ん中に立たせて、「安息日にしてよいのは善を行うことか、悪を行うことか。いのちを救うことか、殺すことか」3:4とパリサイ人に問われます。応答できないイエスさまの追求です。安息日は善の日であり、生かされる日であるはずなのに、この手のなえた人にとっては一刻も早く癒されたかったのに、そこに癒し主がおられるのに、パリサイ人は心頑なに受け入れませんでした。キリスト者は安息日の真の意味を覚える、めぐみの存在です。

めぐみのパンくず

[新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるのです。」       マルコ 2:22

◎断食の話から入ります。ヨハネの弟子もパリサイ人も良く断食しました。特にパリサイ人は週に二回(月・木)断食しました。いかにも断食していますと言う姿でパリサイ人は顔に白い粉を塗ったり、汚れた服を着て人々に表しました。イエスさまはそのような断食はするなと弟子たちに命じておられます。マタイ6:16~18。ましてや花婿(イエスさま)と一緒の時には、断食などしません。しかし、イエスさまが取り去られる時には断食するであろうと予告されました。

◎イエスさまと一緒にいることを二つのことで表されています。古い着物に、新しい布切れでつぎを当てると着物は破けてしまうこと。もう一つは新しいぶどう酒は新しい皮袋でないと、発酵するので柔軟性のない古い皮袋は破けてしまうと言われました。新しい布切れも、新しい皮袋も、信仰者の新しい生活を表しているのです。

◎古い布切れ、古い皮袋(体質)はそれぞれ新しいものと共存できません。キリスト者生活も、新しい生活態度(信仰生活)を保たなければ、破綻してしまうのです。

◎皮袋で考えて見ましょう。新生したキリスト者は新しい皮袋を持っています。礼拝すること、聖書を読むこと、祈ることを、ここにキリスト者に新しいぶどう酒(よろこびのぶどう酒)が満ちるのです。キリスト者の生活が新しい皮袋でありますように。信仰によって「見よすべてが新しくなった」Ⅱコリ5:17と宣言されたのですから、信仰生活のよろこびを満喫させていただきたいものです。

めぐみのパンくず

『医者を必要とするのは丈夫なものでなく、病人です。わたしは正しい人を招くためでなく、罪びとを招くために来たのです。』”マルコ2:17

◎アルパヨの子レビとは、マタイのことです。彼は取税人でした。イエスさまの招きにすぐに応じたレビは、自分の家にイエス様一行と取税人や罪人を招待します。自分の材を投げ出して大パーティを開いたのです。何のための?それは自身の旗印を明確に示すためでした。取税人と言う過去と決別し、以後はイエスさまの弟子として従っていくと言う。この明確さは、キリスト者にとってとても大切な事です。

◎いつものごとく、パリサイ人、律法学者は弟子たちはでたちに難癖をつけます。お前たちの師はどうしてこんなことをするのかと。

◎このことを聞かれた、イエスさまの答えが主題のみことばです。取税人、罪びとは自分たちの状態をよく理解できました。「病人」であることと、「罪人」であることです。「病気」肉体的なこと以上に、心の病と知っていたのです。知っていただけでなく、確かにいやして下さるお方が誰かを。

◎「罪人」においても同じです。殺すな、盗むな、姦淫するな、偽るなの対人関係の問題だけでなく、その思いにおいて、深層から罪びとであることを気づいたゆえに、彼らは、イエスさまを中心としたパーティに参加したのです。自分は正しい生活を送っていると自負している者はこの輪には入れないでしょう。

◎イエスさまは、心と体の癒し主、罪を解決して下さるただお一人のお方です。

めぐみのパンくず

中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』というのと、どちらがやさしいか。” マルコ2:9

中風は半身の不随や、腕や脚のマヒする病気です。 一般的には、脳出血後に残る病気と言われます。つらいことだと思いますが、この人には良き友たちがありました。何と4人も!

◎友たちは、イエスさまなら癒していただけるだろうと確信していました。戸板に乗せてやってきたのです。しかしイエスさまがおられた家はいっぱいの人で入れません。機転の利く4人は屋上に上りその屋根を引きはがして、病人をつり下ろしたのです。

◎イエスさまは、「彼らの信仰を見て」中風の人に『子よ、あなたの罪は赦されました』と宣言されます。イスラエルでは病気は罪の結果であると考えられていました。この人も病気の原因を思う時、罪を悔いていたと考えられます。イエスさまの業は内面から始まります。

◎ところが、見ていた律法学者たちにとっては「罪をゆるすことが出来るのは神だけ」と心の中で理屈をこね「神を汚している」とイエスさまを非難します。これを見抜かれたイエスさまは『人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために』と寝床を取り上げ元気に歩き回れるようになさいます。

◎二つの幸いを見ます。イエスさまは心と体の癒し主、この人はそれを体験しました。また、良き信仰の友を持っていたということです。『世には友らしい見せかけの友がある。しかし兄弟よりもたのもしい友もある。』箴言18:24(口語)

めぐみのパンくず

イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。わたしの心だ。きよくなれ。」”

              マルコ 1:41

◎ひとりのハンセン病の患者の癒しです。ガリラヤ全地にイエスさまの病人を癒し悪霊を追い出される御業がなされました。その噂を聞き、やって来たのでしょう。

◎この病は汚れた者として、他の人々とは距離を置き、決して触れてはならないものでした。(ルカ17:12)その彼が大胆にもイエスさまのみもとにお願いに来たのです。その言葉は「癒して下さいます。」ではなく「きよくしていただけます。」でした。

◎イエスさまのみわざは「きよくない」と思う者をきよくされる、みわざです。キリスト者は聖なる神さまを真実に知るとき、きよくされなければならない存在であることに気づきます。山上の垂訓(マタイ5章)に「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」とイエスさまは言われましたが、この時も、最初にイエスさまのもとに来た人はハンセン病の人でした。汚れを覚える時、大胆にイエスさまにお願いできる人は幸いです。

◎ハンセン病はたちまち癒されました。その人にイエスさまは「誰にも言わないようにしなさい。」そして、決められた信仰の慣例を行いなさい」Vs44と戒められました。イエスさまのみわざに対して、神さまへの感謝が第一です。そして「決められていたささげものをしなさい」と。きよくしてくださったイエスさまの勧めよりも、嬉しさだけが先走ってしまったことは残念なことです。

めぐみのパンくず

イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱が引き、彼女は彼らをもてなした。”             マルコ1:31

◎会堂で汚れた霊に悩まされている人を癒された主はシモンとアンデレの家に行かれます。そこにはシモンの姑が熱病で苦しんでいました。ルカの福音書では「高い熱」と記されています。イエスさまは手を取って起こされ癒されます。

◎癒されたことも素晴らしいですが、癒された姑が早速、イエスさま初め皆をもてなしたことです。感謝のあふれる接待であったと思います。聖書には癒されて後、さっさとイエスさまから離れてしまう人も描かれています。キリスト者のモットーとして「奉仕するために、救われた」と言う言葉がありますが、健康は主のためと覚えることが出来るキリスト者でありたいものです。

◎夕方になると大勢の病める人々が戸口までやって来ました。安息日には何もしてはならず、終わるや否や彼らはイエスさまのもとに来たのです。イエスさまは悪霊を追い出し、病をいやされました。感謝な事、素晴らしいことですが、イエスさまを愛することを忘れて、癒し主としてしか見ない人が大勢いることも忘れてはいけません。癒されたら一層主を愛する者とさせていただきたいものです。

◎イエスさまは、朝早く暗いうちに祈りをなさいます。霊的にも肉体的にもお疲れになっていたのでしょう。祈りは「神さまと交わり、神さまからの力を養う時」です。イエスさまは父なる神さまとの交わりを何よりも大切な時とされました。他の所での働きのためにも。

めぐみのパンくず

人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」”      マルコの福音書1章27節

◎マルコ伝には 癒しの記事が13回記されている。(ハンセン病、中風、なえた手、ヤイロの娘(死んだが生き返らされた)、長血の女、耳が聞こえず下がまわらなかった男、盲人バルテマイの癒しなどです。

◎その中で悪霊に取りつかれた人の病が5回、加えてベルゼブル論争があり、多くの病の癒しの中で最初に書かれているのが「汚れた霊に取りつかれた男」の癒しです。しかもイエス様が安息日にカぺナウムの会堂で教えられた時に起こったことが記されているのは興味深いことです。

◎イエスさまの教えを聞いていた人々の中に、汚れた霊に取りつかれた男が大声で喚きました。それは「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ち壊すためです」Ⅰヨハネ3:8のみことばのとおりイエスさまの力におびえたのでしょう。

◎また、汚れた霊は「あなたは神の聖者です」Vs24と告白しています。悪霊自身がイエスさまを聖者と告白しているのです。人間以上にイエスさまの存在を彼らは知っているのです。しかし、イエスさまは悪霊にご自身を告白して欲しいとは決してお考えになりませんでした。

◎悪霊の住み家は人の心であり、それを追い出す権威をもってイエスさまは来られました。心の真ん中にイエスさまをお迎えして聖なる霊が宿って下さるキリスト者であることを信じて。

めぐみのパンくず

イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」”

                マルコ1:17

◎12弟子最初の4人の召しです。彼らはガリラヤ湖の漁師でした。シモンとシモンの兄弟アンデレ。ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネです。

◎二組の兄弟たちに目をとめてみますと、漁の真っ最中に「私について来なさい、人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたシモンとアンデレ。船の中で網を繕っていたヤコブとヨハネ、対照的な姿ですが、どちらも主の目に留まったのです。

◎イエスさまの目は、力を尽くして働いている者、また準備を怠らない者に注がれています。良い準備働き働きのもとです。見えるところと見えないところのバランスが取れている人々です。

◎次に彼らの応答を見てみますと、シモンとアンデレは「すぐに」網を捨ておいてしたがい、ヤコブとヨハネは父と雇人たちを船に残して、イエスに従ったのです。決断のすばらしさを見ます。取税人マタイもそうでした。逆に主の招きに応じられず、この世のことに後ろ髪を引かれて決断できない人もあるかと思えば、人間的な思いで、イエスさまについて行きたいと言って、弟子の厳しさをイエスさまに示される人もいます。その中でこの四人は御目にかない、彼らも「人間をとる漁師に」心からさせていただきたいと願った人たちでした。

◎現在も主は呼びかけて招こうとされている兄弟姉妹がいることを思います。お声がかかったら「すぐに」従う。大きな恵みです。

めぐみのパンくず

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」”    マルコ1:16

◎イエスさまの出番です。そのイエスさまが上のみことばを告げられる前に通られたことがありました。

◎第一はバプテスマのヨハネから洗礼を受けることでした。ヨハネは洗礼を授けることを躊躇しましたが、「今はそうさせてもらいたい」マタイ3:15と言って受けられたのです。イエスさまのバプテスマは罪人の洗礼とは内容は全く違う者でした。なぜなら、その後で、聖霊が鳩のように下り、天からの父なる神さまの声が聞こえました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」11と。イエスさまの伝道への就任式、出発式のための洗礼式と言われます。

◎第二は、すぐに伝道の声を上げず、荒野(そこには獣もいました)に行き、40日間断食をされました。父なる神さま以外一切の関係を断ち祈るために。祈りの勝利はすぐに現れます。この世の支配者、サタンの試みがやってきますが勝利されます。マタイの福音書に三つの誘惑が記されています。①食物への誘惑②力の誇示③世の支配者に頭を下げる。の三つでした。人間が陥りやすい誘惑に救い主の勝利を見ます。その秘訣はみ言葉でした、モーセがカナン突入の前に(一度は失敗したイスラエルの民に)「再び言う」と語った申命記、そこから三度引用されて、サタンを撃退なさったのです。み言葉を正しく読み力とするキリスト者でありたいと思います。自分勝手な使い方をするサタンの手に陥らないために。