めぐみのパンくず

『安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日の主です。』マルコ227,28

◎安息日は神さまがこの世界を創造され、7日目に休まれたところから始まりました。正しい意味で安息日が行使できれば良かったのですが、ユダヤ人(パリサイ人)たちは間違った理解をしていたのです。二つの点においてその間違いを見ます。

◎第一は弟子たちが麦畑で穂を摘み食べ始めたこと、第二はイエスさまが安息日に手のなえた人を癒されたことに対してです。麦畑で穂を摘んで食べることは(刈ってはいけない)許されていました。しかし、安息日にしたことが問題となりました。イエスさまはかってダビデが空腹の時、祭司しか食べられない食物を食べたことをあげ、神さまは無慈悲なお方ではないことを示されます。

◎手のなえた人の癒し。安息日において、死地にある人以外は、治療できないことになっていたのです。イエスさまはこのことの間違いを示すため、その人を「真ん中に立たせて、「安息日にしてよいのは善を行うことか、悪を行うことか。いのちを救うことか、殺すことか」3:4とパリサイ人に問われます。応答できないイエスさまの追求です。安息日は善の日であり、生かされる日であるはずなのに、この手のなえた人にとっては一刻も早く癒されたかったのに、そこに癒し主がおられるのに、パリサイ人は心頑なに受け入れませんでした。キリスト者は安息日の真の意味を覚える、めぐみの存在です。

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