礼拝説教から 2020年1月26日

  • 聖書箇所:創世記41章
  • 説教題:ファラオの夢

 ファラオはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」(創世記41章15-16節)

 ファラオが奇妙な二つの夢を見ました。そして、その夢の解き明かしをしてくれる者がいない中で、ファラオは不安になっていたようです。そんな時、かつてヨセフに夢の解き明かしをしてもらったことのある献酌官長が、ヨセフのことを思い出しました。献酌官長からヨセフのことを聞いたファラオは、すぐにヨセフを監獄から呼び寄せました。そして、「おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが」と、ヨセフに問いかけます。

 ヨセフはこのファラオの問いかけに、「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです」と答えました。ヨセフは「私ではありません」と答えました。何とも謙遜な態度だなぁということを思います。

 何か上手くいったことが認められた時、誰かに褒められた時、私たちは何と答えるでしょうか。信仰者であるなら、「私ではありません」と答えることがあるのではないでしょうか。心の底から、あるいは、心の中では「へへん」と思っていても、「私ではありません。神様です」と言ったりすることがあるのではないでしょうか。そして、上手くいった時にこそ、褒められた時にこそ、謙遜であろうとすることはないでしょうか。そのような態度はとても大切なことではないかと思います。

 しかし、ヨセフの続く言葉を見ると、どうでしょうか。ヨセフは「神が」と続けています。そして、その後は、「夢の解き明かしをしてくださる」と続けるのが、自然ではないでしょうか。相手から、「あなたは、夢を聞いて、それを解き明かすと聞いた」と言われて、「私ではありません」と答えておいて、「神が」と続けるなら、その後には「夢の解き明かしをしてくださる」と続くのが、自然な流れではないでしょうか。「夢の解き明かしをするのは、私ではなくて、神様だ」ということです。

 しかし、ヨセフの言葉は違います。ヨセフは、神様が、「ファラオの繁栄を知らせてくださる」と言っています。神様が「夢の解き明かしをしてくださる」と言っているのではなくて、「ファラオの繁栄を知らせてくださる」と言っているということです。

 どういうことでしょうか。それは、ヨセフが、ファラオの夢の内容を、聞く前から知っていたということではないでしょうか。ヨセフは、ファラオの夢の内容を知っていたからこそ、神様が「ファラオの繁栄を知らせてくださる」と宣言することができたということではないでしょうか。あるいは、ファラオの夢の内容を知っていたとまでは言えなくても、ファラオに対する神様の御心を知っていたということになるのではないでしょうか。ヨセフは、神様の御心がファラオの繁栄を知らせようとすることであることを知っていたということではないでしょうか。ヨセフは、ただ単に、謙遜であろうとしたということではなくて、ファラオに対する神様の御心を伝えようとしたということです。ファラオの繁栄を願う神様の御心を伝えようとしたということです。

 新改訳2017で「繁栄」と訳されている部分は、旧約聖書の言葉であるヘブル語の聖書では「シャーローム」という単語が使われています。「シャーローム」というのは、「満たされている状態」ということを意味しています。必要以上のものはないかも知れません。しかし、不足がありません。完全に満たされています。あらゆる面において満たされています。それがシャーロームです。そして、その満たされている状態というのは、神様との正しい関係の中で与えられるものです。

 ヨセフは、夢の解き明かしをすると共に、夢の中で示された世界的な大飢饉に備えるために、具体的な提言をします。ファラオはヨセフの提言を受け入れて、ヨセフを指導者にして、大飢饉に備えます。その結果として、エジプトの国は、ヨセフの力によって、世界的な飢饉の中で守られることになります。

 そして、ヨセフの物語をずっと見ていくと、カナンの地にいるヨセフの家族も、後にエジプトに来て、エジプトの地で飢饉から守られることになります。神様は、ファラオの夢を用いて、また、ヨセフを用いて、世界的な大飢饉から、後のイスラエルの民を形成するヨセフの家族を救い出されるということです。ファラオは、そのヨセフの家族の救いのために、イスラエルの民の救いのために、用いられるということです。

 そして、そのヨセフの物語の全体を見る時、もしかしたら、私たちは、ファラオのことを、神様の救いの計画のために、ヨセフの家族の救いのために用いられただけに過ぎないと考えることがあるかも知れません。ファラオは、神様がご自分の救いの計画を実行するために用いられた駒のような存在に過ぎないと見ていることがあるかも知れません。

 しかし、ヨセフを通してファラオの繁栄が告げられた場面から、見えてくることは何でしょうか。それは、神様が、ただ単に、ヨセフの家族を救うために、ファラオを用いられただけではなくて、ファラオ自身の祝福を願われたということではないでしょうか。神様にとって、ファラオは単なる駒ではないということです。神様にとって、どうでもいい人間は一人もいないということです。神様は、ファラオもまた、ご自分との関係の中で満たされることを願われたということです。ファラオその人の祝福を願われたということです。ファラオを愛されたということです。そして、そのファラオの祝福のために、むしろ、ヨセフが用いられたということです。

 神様は、ご自分の大きな計画の中で、ヨセフを用いられました。ファラオを用いられました。それは、神様がヨセフやファラオを単なる駒のように考えられたということではありません。役に立たなくなったら、必要なくなったら、いつでも捨てられる駒のように考えられたということではありません。そうではなくて、神様はヨセフその人の祝福を願われました。ファラオその人の祝福を願われました。神様は、ヨセフにしろ、ファラオにしろ、一人一人を見て、一人一人を大切にされたということです。

 信仰者である私たちは、神様の道具であろうとすることを、「良し」とするかも知れません。それはとても大切なことです。しかし、同時に、神様は、私たちのことを、単なる道具として見ておられるのではないことを、覚えておきたいと思います。いつでも捨てることのできる道具のように見ておられるのではないことを、覚えておきたいと思います。

 神様は、私たちのことを、互いに愛し合うパートナーとして見ていてくださいます。その互いに愛し合う関係の中で、私たちが豊かな祝福に与ることを願っておられます。大切なことは、その神様と共に生きることです。神様は、私たちに必要の一切を満たしてくださり、真の繁栄を与えてくださいます。

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