礼拝説教から 2019年10月13日

  • 聖書箇所:創世記30章25-36節、31章43-55節
  • 説教題:神の見張りの下で

 また、それはミツパとも呼ばれた。彼がこう言ったからである。「われわれが互いに目の届かないところにいるとき、主が私とあなたの間の見張りをされるように。(創世記31章49節)

 ヤコブの一行がラバンの所を離れて故郷に帰ろうとする時、ラバンはヤコブに契約の締結を提案しました。その内容は平和条約とも言えるようなものでした。ラバンは、故郷に帰ったヤコブが、後に自分たちの所に攻めて来るようなことがないように、契約を結んでおきたかったということです。ラバンは、ヤコブとの関係において、安心を得ておきたかったということになるでしょう。

 ラバンとヤコブの間で契約が結ばれた時、契約の証拠として、石塚が造られました。そして、その石塚はミツパと呼ばれました。そこには、「主が見張りをされるように」という願いが込められています。

 ラバンとヤコブとの間で結ばれた契約は、ラバンが一方的に要求したものです。ラバンは一方的にヤコブと契約を結んだのでした。しかも、ヤコブの神様である主の御名を持ち出して契約を結びました。「神様が見ておられるぞ、悪いことは考えるなよ」ということです。ラバンは、ヤコブが恐れる神様によって、ヤコブの行動を制限しようとしたということです。

 神様の前で何かを誓うというのは、神様を恐れていなければ、何の意味もないことです。神様を恐れていなければ、神様の前で誓われたことには、何の意味もありません。

 自分の家の守り神にこだわるラバンは、神様を恐れていません。その神様を恐れていないラバンにとって、神様の前で誓ったことなどというのは、もしかしたら、どうでもよかったということになるかも知れません。ヤコブさえ、神様の前で誓ったことを守ってくれさえしたら、それでよかったということになるでしょう。それは、反対に、ヤコブの側からすると、何とも不確かな契約だったということになるかも知れません。ヤコブの側からすると、ラバンが神様を恐れて、神様の前で誓ったことを守ってくれるかどうかということは、まったく分からないわけです。

 しかし、ヤコブはラバンの提案をそのまま受け入れました。信頼することのできないラバンの提案をそのまま受け入れました。

 どうしてでしょうか。それは、ヤコブが神様を信頼していたからではないでしょうか。見張っていてくださる神様を信頼していたからではないでしょうか。ラバンに仕える二十年の間、ラバンを見張って、自分を守ってくださった神様を経験していたからではないでしょうか。

 確かに契約を結んだ相手のラバンを信用することはできなかったでしょう。上手いことを言っておきながら、いつまた欺いてくるか分からないラバンを、ヤコブは警戒していたかも知れません。しかし、そのラバンとの契約を見張っていてくださる神様を、ヤコブは信頼していました。ヤコブは、見張っていてくださる神様を信頼していたからこそ、信頼することのできないラバンと契約を結んで、改めて故郷へ向かうことができたということです。神様を恐れて生きる歩みをスタートさせていたヤコブにとって、神様が見張っていてくださるというのは、何よりも心強いことでした。神様の前で契約を結んで、本当に安心することができたのは、ラバンではなくて、ヤコブだったということです。

 私たちはどうでしょうか。もしかしたら、神様を恐れることのない世界の中で、私たちもまた、理不尽なことを要求されることがあるか知れません。信頼したくても信頼することができないような関係の中で、勉強したり仕事をしたりしなければならないことがあるかも知れません。

 しかし、ヤコブとラバンの間を見張っていてくださった神様は、私たちを取り巻く世界のことも見張っていてくださいます。そして、私たちをあらゆる問題から守っていてくださいます。大切なことは、私たちがその神様を恐れ、神様を信頼することです。私たち自身でもなく、私たちを取り巻く問題でもなく、見張っていてくださる神様を見上げることです。そうして、見張っていてくださる神様の下で、世界に仕えていくことです。

 毎週日曜日の礼拝を通して、見張っていてくださる神様を見上げたいと思います。神様が見張っていてくださることを覚えながら、一週間の歩みへと遣わされていきたいと思います。そして、その私たちを通して、神様の祝福が豊かに分かち合われていくことを願います。

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