礼拝説教から 2019年9月15日

  • 聖書箇所:創世記27章1-40節
  • 説教題:人間の嘘偽りを越えた神の祝福

 エサウは父に言った。「お父さん、祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を祝福してください。私も。」エサウは声をあげて泣いた。(創世記27章38節)

 エサウはかつて、一杯の煮物と引き換えに、長子の権利、長男としての権利を弟のヤコブに売り渡していました。エサウは長子の権利を軽く見ていたのでした。そしてそれは、エサウが神様の祝福を軽く見ていたということを意味しています。長子の権利を軽く見ていたエサウは、神様の祝福をも、さらには、神様ご自身をも、同じように軽く見ていたということです。一杯の煮物と引き換えに、売り渡してもよいものであるかのように、軽く見ていたということです。そして、神様の祝福を失ってた時に初めて、エサウは自分が失ったものの重み、神様の祝福の重みに気づかされたのでした。

 エサウが失った神様の祝福というのは、どのようなものでしょうか。それは、たった一つしかないものでした。人間の側の都合で、勝手に取り消したり、やり直したりすることのできないものでした。勝手に取り消したり、やり直したりできないものであるからこそ、それだけ重みのあるものでした。そしてそれは、その祝福を受けるかどうかによって、その人の歩みに決定的な違いをもたらすようなものでした。

 神様は、イエス様を信じるすべての人々に、ご自分の祝福に与って生きる道を開いてくださいました。神様とともに生きる祝福の道を開いてくださいました。その祝福は一つしかないというようなものではありません。隣の人に与えられたら、私にはもう与えられないというようなものではありません。しかし、イエス様のかけがえのないいのちが込められた、重みのある祝福です。いのちをかけられたイエス様の愛が込められた、重みのある祝福です。そして、神様はこの祝福を私たち一人一人が受け取ることを願っておられます。

 私たちはどうでしょうか。神様の祝福の重みにどれだけ気づいているでしょうか。神様の祝福に与って生きることが、最大の関心事となっているでしょうか。あるいは、「今の自分には、神様の祝福なんて何の意味もない」とでも思っているでしょうか。

 今日の礼拝に集った私たちが、一人ももれることなく、神様の祝福を受け取ることができることを、心から願います。神様とともに生きる祝福に与り、さらには祝福の器として用いられることを、心から願います。

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