礼拝説教から 2019年6月23日

聖書箇所:創世記17章
説教題:割礼の恵み

 次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。(創世記17章10-11節)

 神様は、アブラハムに割礼を命じられました。割礼というのは、男性の性器の皮を切り取ることです。アブラハムは、神様と結んだ契約のしるしとして、割礼を受けることを命じられたのでした。

 現在の教会に集う私たちは、割礼ということばに否定的なイメージを抱いているかも知れません。なぜなら、イエス様の十字架の死と復活が明確に示されている新約聖書の中では、割礼は否定的な文脈の中で語られていることが多いからです。

 ユダヤ人でクリスチャンとなった人々の一部は、救われるためにはただ十字架につけられた主イエス・キリストを信じるだけでは不十分だと主張しました。イエス様を信じるとともに、神様のことばである律法の教えに従って、割礼も受けなければならないと主張しました。

 確かに、救いを得るために必要な条件として、神様の民とされて生きるために必要な条件として、割礼が求められるとするならば、それは意味のないことであり、福音の根幹を揺るがすことです。なぜなら、神様は私たちに何の条件を求めることもなく、愛してくださっているからです。神様は、ご自分から離れた私たちを愛し、私たちがご自分の所に帰って来て、ご自分とともに生きることを願っておられるだけだからです。私たちが神様の愛を得るために、神様の民とされるために、しなければならないことは、何もないわけです。必要なことは、イエス様の十字架に示された神様の愛をただ受け取ることだけです。改めて、割礼を受ける必要はないということです。

 しかし、その割礼が、アブラハムや後の子孫たち、アブラハムの家に属する人々にとって、とても重要なものでした。なぜなら、彼らにとって、割礼は神様の恵みを覚える手段になったからです。

 アブラハムとその妻のサラ、二人は神様の呼びかけに応じて、神様に従って生きる信仰の歩みをスタートさせました。しかし、その歩みはどうだったでしょうか。実に危なっかしいものでした。アブラハムとサラの信仰生活は実にフラフラしたものでした。

 そして、「だからこそ」ということになるでしょうか、神様がアブラハムに命じられた割礼は、大きな意味を持つことになります。なぜなら、アブラハムはどんなにフラフラしても、信仰とは呼べないような信仰しか持ち合わせていないとしても、神様の契約の民とされている恵みを、割礼によって覚えることができたからです。自分が神様の民とされている恵み、神様との関係の中に生かされている恵み、神様が決して諦めることなく、自分を導いていてくださる恵みを、割礼によって覚えることができたからです。

 割礼によって刻み付けられたしるしは、決して消えることがありません。アブラハムと後の子孫たち、アブラハムの家に属する人々は、割礼によって刻み付けられたしるし、二度と消えることのないしるしを見ながら、神様の民とされている恵みを覚えて、神様に愛されていることを覚えて生きることができたのでした。彼らにとって、割礼は何よりも神様の恵みを覚える手段だったということです。

 現在の私たちは、割礼を受けたりはしません。主イエス・キリストを信じる私たちは、割礼ではなくて、洗礼を受けます。しかし、その恵みは、割礼も洗礼も何ら変わりがありません。私たちは、たった一度の洗礼によって、決して揺らぐことのない神様の恵みを覚えることができるということです。神様が私たちをご自分のものとしてくださった恵みは決して無効にならないことを、私たちは洗礼によって覚えることができるということです。

 私たちはイエス様を信じて洗礼を受けます。信じるからこそ、洗礼を受けます。しかし、その洗礼を受ける私たちの信仰というのは、どうでしょうか。私たちは決して崩れることのない確かな信仰を持ったと思うから、洗礼を受けるのでしょうか。どんな試練や誘惑に襲われても、イエス様から離れないという自信が得られたから、洗礼を受けるのでしょうか。逆に言うと、信仰がフラフラしていたら、洗礼を受ける資格などはないのでしょうか。

 洗礼というのは、私たちの信仰が揺るぎないものであることを示すものではありません。そうではなくて、神様の恵みが揺るぎないものであることを示すものです。私たちの信仰ではなく、私たちに信仰を与えてくださった神様の恵みが確かなものであることを示すものです。信仰がフラフラする私たちを愛してご自分のものとしてくださった神様の恵みは揺るぎないものであることを、私たちは自分が洗礼を受けたことを振り返りながら、何度でも確認することができるということです。そうして、いつも新しく出発することができるということです。

 フラフラしているアブラハムの信仰を最後まで支えられた神様は、私たち一人一人も支えていてくださいます。そして、その私たちを支えていてくださる神様の恵みが確かなものであることを覚えることができるように、イエス様は洗礼を命じてくださいました。

 私たちを愛して、十字架にかかってくださったイエス様が、私たちに洗礼を命じてくださった恵みを覚えて感謝したいと思います。弱い者であるからこそ、フラフラする者であるからこそ、洗礼の恵みに与っていることを覚えて感謝したいと思います。また、この洗礼の恵みに与る方が一人また一人と加えられることを心から願います。

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