礼拝説教から 2019年6月16日

聖書箇所:創世記16章
説教題:私を見てくださる方

 主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけた。そして言った。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」すると彼女は言った。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」(創世記16章7-9節)

 そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。彼女は、「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」と言ったのである。(創世記16章13節)

 アブラムが神様の招きに答えて、信仰の旅立ちをスタートさせた時、神様はアブラムに祝福を約束されていました。それは、アブラムの子孫が「大いなる国民」となることであり、アブラムとその子孫によって、神様は「地のすべての部族」が祝福されることを約束されました。しかし、その約束の前提となる子どもが、アブラムと妻であるサライの間には与えられていませんでした。

 アブラムとサライは、神様に導かれてカナンの地まで来てから、すでに10年という年月が過ぎていました。サライは、神様の約束を信じることができなかったのでしょうか、約束の実現を待つことができなかったのでしょうか。夫のアブラムにハガルという女奴隷を与えて、生まれてくる子どもを自分たちの子どもにしようとしました。夫のアブラムも了解しました。そして、サライの思惑通りに、ハガルは妊娠をしました。

 しかし、事はサライの思い通りには進まなかったようです。それは、妊娠をしたハガルが、女主人であるサライを軽く見るようになったからです。怒ったサライは夫の了解を得て、ハガルを苦しめるようになりました。そして、耐えられなくなったハガルは、サライの所から逃げ出すことになりました。

 一人の女性が、居場所のない家の中から飛び出しました。奴隷という身分で、しかも妊娠もしています。それは、女性と子どものいのちが危険にさらされることになったということを意味しています。しかし、その女性、ハガルは主の使いに見つけられました。主の使いというのは、神様ご自身と言ってもいいのかも知れません。

 神様はハガルに二つのことを語られました。一つ目は、ハガルの子孫が増し加えられるということでした。それはハガルに対する神様の祝福でした。

 そして、二つ目はハガルが妊娠している子どもについてでした。神様はハガルに、妊娠している子どもが生まれたら、「イシュマエルと名づけなさい」と言われました。それは、神様がハガルの苦しみを聞き入れられたから」だということでした。神様はご自分がハガルの苦しみ叫ぶ声を聞き入れたことを示されたのでした。

 神様はハガルの祝福を願っておられました。しかし、だからと言って、神様は何の問題もない新しい居場所をハガルに与えると言われたのではありませんでした。ハガルにとって居心地のいい場所を用意すると言われたのではありませんでした。そうではなくて、本来のいるべき場所へ帰ることを示されたのでした。本来のいるべき場所に帰って、謙遜に生きることを示されたのでした。そしてそれは、ハガルにとって決して楽なことではなかったでしょう。むしろ、とても辛いことだったでしょう。神様はハガルが向き合わなければならない現実を示されたのでした。

 しかし、ハガルはその現実と向き合う道を選びました。どうしてでしょうか。それは、ハガルが自分のことを見ていてくださる神様と出会ったからではないでしょうか。自分の苦しみを知っていてくださり、その苦しみの叫びを聞いていてくださる神様と出会ったからではないでしょうか。ハガルは、ずっと自分のことを見ていてくださった神様に気づき、自分の苦しみを聞いていてくださり、自分を生かしていてくださる神様と出会ったのでした。そして、その神様のことばに従って、自分のいるべき場所へ帰って行ったということです。自分の仕えるべき主人、アブラムとサライの所へ帰って行ったということです。

 私たちの生きる現実、私たちの置かれている現実というのは、私たちが神様を信じたからと言って、急に変わるようなものではありません。神様を信じても、現実は何も変わらないわけです。神様は私たちが直面している課題や問題をすぐに解決してくださって、私たちが悩んだり苦しんだりしなくてもいいように、取り計らってくださるというような方ではありません。

 しかし、神様はその現実の中にある私たち一人一人をしっかり見ていてくださいます。私たちが苦しみ叫ぶ声を聞いていてくださいます。大切なことは、私たちが自分を見ていてくださる神様に気づくことです。ずっと前から、私たちが生まれる前から、私たちに関心を持ち、私たちを見つめていてくださり、私たちが苦しむ時にも、その叫びを聞いていてくださる神様に気づくことです。いつも私たちを見ていてくださる神様と出会うことです。神様がいつも見ていてくださることを覚えて、その見ていてくださる神様に支えられながら、置かれている現実と向き合っていくことです。

 神様はいつも私たちを見ていてくださいます。そして、この見ていてくださる神様と出会う時、私たちは置かれている現実と向き合っていく力が与えられます。

 毎週日曜日の礼拝で、いつも私たちを見ていてくださる神様を覚えることができることを願います。私たちを愛するがゆえに十字架にかかってくださった神様、主イエス様が、いつも私たちを見ていてくださることを覚えたいと思います。そうして、神様が見ていてくださることを覚えながら、神様が支えていてくださることを覚えながら、一週間の歩みをスタートしていきたいと思います。

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