礼拝説教から 2018年11月4日

  • 聖書箇所:マルコの福音書15章33-41節
  • 説教題:神の子イエス・キリストの死
 さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。(マルコの福音書15章33節)
 イエス様が十字架につけられたのは午前九時でした。それから三時間が経って、十二時になりました。すると、闇が全地を覆いました。そして、それが午後三時まで続いたようです。この午後三時というのは、イエス様が十字架の上で息を引き取られた時間になります。
 十二時から午後三時というのは、もちろん昼間です。本来なら明るい昼間です。その明るいはずの昼間に、闇が全地を覆ったのでした。
 どういうことなのでしょうか。神の子であり、救い主であるイエス様が十字架につけられて死なれることは、まさに暗闇が世界を覆う出来事に他ならないということが示されているのではないでしょうか。イエス様が、私たちの罪によって十字架につけられて死なれるのは、暗闇が世界を覆うようなことであり、世界が暗闇に支配されるような出来事だということです。
 私は、この場面を見ながら、「ちょっと不思議だなぁ」と思うことがあります。それは、「真昼に闇が全地を覆う」という出来事そのものについてではありません。「真昼に闇が全地を覆うなどというのは、あるわけがないじゃないか」ということではありません。そうではなくて、私がちょっと不思議に思うのは、「真昼に闇が全地を覆う」というその状況の中で、人々が何か驚きや恐れを感じたりしているような様子が、何も記されていないということについてです。マルコの福音書には、「十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた」ということが、実に淡々と記されているだけで、それに対する人々の反応のようなものは、何も記されていないのです。ただ、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)」というイエス様のことばに、頓珍漢な反応を示しているだけです。
 私たちはここから何を見ることができるでしょうか。その一つは、暗闇の中にありながら、暗闇の中にいること自体に気づいていない人々の姿ではないかと思います。そしてそれは、人々がまことの神であり、まことの王であるイエス様を十字架につけるという罪を犯していながら、その罪にまったく気づいていない姿でもあります。人々は、暗闇の中にありながら、罪の支配の中にありながら、その暗闇の中にあること自体に、罪の支配の中にあること自体に気づいていないということです。
 暗闇というのは怖いものです。何も見ることのできない暗闇の中で、私たちは恐れを感じるものです。
 しかし、今日の本文の中に描かれている場面、「真昼に闇が全地を覆う」場面を見ながら、私は、暗闇そのものよりももっと怖いものがあるということを思います。それは繰り返しになりますが、暗闇の中にありながら、暗闇の中にあることにすら気づかないことです。罪の支配の中にありながら、罪の支配の中にあることにすら気づかないことです。
 クリスチャンになるというのは、どういうことでしょうか。それは、まことの神であり、救い主であるイエス様の光に照らされて、自分が暗闇の中にあったことに気づき、罪の支配の中にあったことに気づき、そうしてイエス様の光の中を歩き始めることです。イエス様の光に照らされながら、イエス様に従って歩き続けることです。
 私たちはどうでしょうか。暗闇の中にありながら、罪の支配の中にありながら、暗闇の中にあることに、罪の支配の中にあることに気づいていないということはないでしょうか。あるいは、光の中を歩き始めたにもかかわらず、暗闇の中に戻ろうとしたりしていることはないでしょうか。
 いつもイエス様の光に照らされながら、イエス様に導かれて歩き続けることができればと思います。

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