礼拝説教から 2018年10月28日

  • 聖書箇所:マルコの福音書15章16-32節
  • 説教題:十字架につけられ
 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。(マルコの福音書15章31-32節)
 祭司長たちと律法学者たちは、イエス様がたくさんの人々の病気を治したり、たくさんの人々から悪霊を追い払ったりされたことを、見たり聞いたりしていました。それは神様でなければできないことでした。そして実際に、それはイエス様が神様だからこそできたことでした。祭司長たちと律法学者たちは、その奇跡とも言える力によって、人々の支持を得ているイエス様を妬み、イエス様が神様であることを認めることができなくて、イエス様を十字架刑に追いやったのでした。
 その祭司長たちと律法学者たちは、十字架につけられたイエス様に対して、「お前が本当にキリスト、救い主であるなら、十字架から降りることができるだろう」ということを言いました。本当のキリスト、救い主であるなら、十字架から降りて、自分を救うことだってできるはずだと言うのです。そして、実際に十字架から降りる場面を見たら、信じると言うのです。信じてやると言うのです。
 祭司長たちや律法学者たちは、イエス様が十字架から降りる所を見たら、信じると言いました。
 私たちはどうでしょうか。私たちは何を見て信じるのでしょうか。私たちは何を見て、イエス様が救い主であることを信じるのでしょうか。それは、イエス様が十字架から降りられた場面ではありません。十字架につけられたイエス様が、人間業とは思えないような力を発揮して、十字架から降りられた場面ではありません。そうして、死に定められたイエス様が、ご自分の力でご自分を救われた場面ではありません。この世界のどのような悪や罪にも、決して負けることのない、スーパーヒーローのような姿のイエス様ではありません。そうではなくて、むしろその反対に、イエス様が十字架につけられたままでおられた場面です。十字架から降りるのではなく、十字架につけられたまま、苦しみを耐え忍び、死んでいかれた場面です。
 四つの福音書に描かれているのは、イエス様が十字架から降りられた場面ではありません。イエス様が十字架につけられたまま、苦しみを耐え忍び、そのまま死んでいかれた場面です。その場面を読んで、聞いて、見て、私たちは信じるのです。イエス様が十字架から降りられたのではなく、十字架につけられたまま死んでくださったからこそ、信じるのです。イエス様が十字架につけられたまま死んでくださったからこそ、私たちの罪の赦される道が開かれたことを信じるのです。まことの神であり、まことの王であるイエス様が、私たちを愛するがゆえに、十字架につけられて死んでくださった救い主であることを信じるのです。
 大切なことは、十字架につけられたまま、苦しみを耐え忍んでくださったイエス様を見つめることです。十字架から降りるのではなく、十字架につけられたまま死ぬことによってこそ、私たちの罪が赦される道を開いてくださったイエス様を見つめることです。十字架によって、私たちを愛してくださったイエス様を見つめることです。
 何よりも、そしていつも、十字架から降りることなく、十字架につけられたまま死んでくださったイエス様を見つめたいと思います。いのちをかけて、私たちの救い主となってくださったイエス様を見つめたいと思います。そして、その救い主イエス様を信じたいと思います。

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