礼拝説教から 2018年1月21日

2018年1月21日
マルコの福音書8章27-33節
あなたは、キリストです
 するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」(マルコの福音書8章29節)
 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。(マルコの福音書8章31節)
 ペテロはイエス様について、「あなたはキリストです」と告白しました。この信仰告白そのものは実に素晴らしいものです。しかし、ペテロは、自分の告白している「キリスト」(救い主)の中身について、「キリスト」であるイエス様が苦しみを受ける、ユダヤ人たちの指導者たちに捨てられ、殺されなければならないというようなことは、何も分かっていませんでした。だからこそ、ペテロは、ご自分の受ける苦難について教え始められたイエス様を叱り、逆にイエス様からお叱りを受けなければなりませんでした。「あなたはキリストです」というペテロの信仰告白は、実に欠けだらけのものだったと言えるでしょう。
 そうすると、どうなのでしょうか。ペテロの欠けだらけの信仰告白には、何の意味もないのでしょうか。決してそうではないのだと思います。
 イエス様は、ペテロの欠けだらけの信仰告白を受ける形で、「キリスト」の中身、「キリスト」であるご自分の目指す十字架というゴールについて教え始められることになりました。つまり、イエス様が「キリスト」の中身について、ご自分の目指す十字架というゴールについて教え始められたのは、ペテロの信仰告白が完全なものだったからではないということです。イエス様は「これなら大丈夫だ、ペテロなら大丈夫だ」ということを確認することができて、そうして「キリスト」の中身について、十字架というゴールについて教えることができるようになったのではないということです。それはむしろ、その反対のこと、ペテロの信仰告白が欠けだらけのものであることを踏まえてのことでした。イエス様はペテロの欠けだらけの信仰告白を踏まえて、「キリスト」の中身について、十字架というゴールについて教え、弟子たちや群衆を十字架への道に招かれたということです。
 十字架への道、それはたやすい道ではありません。苦難の道です。しかし、だからと言って、それは立派な信仰を持っている人だけが歩くことのできる道だというのではありません。そうだとすれば、私たちは誰一人として、十字架への道を歩くことができないでしょう。
 十字架への道とはどのようなものでしょうか。それは自分の信仰がいかに欠けだらけであるかを自覚させられる道です。しかし同時に、その欠けだらけの信仰しか持ち合わせていない私たちのために、イエス様が十字架にかかってくださったことを知る道ともなるでしょう。私たちの信仰が、最初から最後まで、十字架にかかってくださったイエス様によって支えられていることを知る道となるでしょう。そうしてイエス様の後ろに回って、イエス様に導かれて生きることを学び続ける道となるでしょう。
 私たちの信仰は欠けだらけです。しかし、そんな私たちだからこそ、イエス様は十字架への道に招いていてくださいます。
 私たち一人一人、イエス様に従って、ともに十字架への道を歩みたいと思います。

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