礼拝説教から 2018年1月14日

2018年1月14日
マルコの福音書8章22-26節
はっきり見えるように
 イエスは、その人の両手を取って村の外に連れて行かれた。そして彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、「何か見えますか」と聞かれた。(マルコの福音書8章23節)
 イエス様は「目の見えない人」の問題となっている所に手を当てられました。手を触れられました。
 「触れる」ということ、それは離れているもの同士をくっつけることになります。「触れる」ことによって、分かれているもの同士、離れているもの同士はくっつき、一つとなります。
 「触れ合い」ということばがあります。「触れ合いの場」とか「触れ合いサロン」などという言い方がされます。どういうことでしょうか。それは、スキンシップをするということではありません。人と人との出会い、交わりが持たれるということです。分かたれていた人と人との関係につながりが生まれるということです。
 「目の見えない人」の両目にイエス様が手を当てられたこと、そこには、イエス様と「目の見えない人」との間に交わりが生まれているのを見ることができます。この全世界を造り、私たち一人一人を造り、愛していてくださる神様との断絶してしまった交わりの回復を見ることができます。神様ご自身が人となって、私たちの世界に来てくださり、罪によって断絶してしまった私たちとの関係を回復させようとしておられるのを見ることができます。
 そして、このようなイエス様との交わりの結果として、神様との交わりが回復された結果として、「目の見えない人」の目は開かれることになりました。
 この「目の見えない人」の目が見えるようになった出来事は、ただ単に目の不自由な人の視力が回復したということではありません。これは、イエス様が弟子たちに対しても、「目がありながら見えないのですか」と言われている通り、私たちすべてに当てはまる出来事です。
 私たちはこの世界の現実を見つめながら生きています。その中で、目の前の現実に目を奪われ、心を奪われていることはないでしょうか。目の前の現実だけを現実だと思い込まされて、その中で驕り高ぶったり、反対に落ち込んだり絶望したりしていることはないでしょうか。私たちの見ているどのような現実をも支配しておられる神様の現実が見えなくなっていることはないでしょうか。
 イエス様はそんな私たちの目が「はっきり見えるように」なることを願っておられます。そしてそのために、私たちの目に触れ、私たちと交わりを持ちたいと願っておられます。
 イエス様に手を触れていただいて、イエス様から声をかけられて、イエス様を見、イエス様の支配されている現実を見つめていくことができればと思います。

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