礼拝説教から 2017年10月1日

2017年10月1日
マルコの福音書6章1-6節
イエス様の驚かれた不信仰
 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。(マルコの福音書6章3節)
 イエス様は郷里のナザレに足を運ばれました。かつて、イエス様の家族は、「気が狂ったのだ」という人々のことばを聞いて、福音宣教の働きを進めるイエス様を、連れ戻そうとしていたことがありました。その家族のいる郷里のナザレにイエス様は足を運ばれました。イエス様にとって、郷里のナザレに足を運ぶことは、大きなチャレンジだったかも知れません。
 そのイエス様は、いつものように、安息日になると会堂に入って教えられました。そしてそこには人々の驚きがありました。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。」ナザレの人々は、会堂で教えられるイエス様に驚きました。
 安息日の会堂で、ずっと朗読され解き明かされてきた旧約聖書の律法、その律法を与えてくださった方ご自身であるイエス様が直接教えてくださる時、そこには驚きがあるのだということを知ることができます。そしてその驚きの中で、イエス様と出会う人々が、イエス様に神様の力と働きを見る人々が、信仰者として、新しい人生をスタートすることになるのだと思います。会堂管理者のヤイロ、十二年間も長血という病気で苦しんだ女性がそうでした。
 私たちに与えられた信仰、それはイエス様に対する驚きから始まっていると言ってもいいのかも知れません。全宇宙を造られた方が、その中のちっぽけな存在に過ぎない私たちのことを気にかけてくださっている、だからこそ私たちの所に来てくださった、このことに気づかされる時、私たちは驚きを感じ、それが信仰へとつながっていくのではないでしょうか。私を救うために十字架にかかってくださったイエス様の愛に気づかされる時、私たちはその深い愛に驚かされ、それが信仰へとつながっていくのではないでしょうか。
 ナザレの人々もイエス様に驚きました。しかし、彼らはここで、イエス様について自分たちの知っていることを持ち出してきました。「大工ではないか」、「マリヤの子ではないか」、「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」、「妹たちもここに住んでいるではないか」、という感じです。そうしてイエス様を受け入れることができませんでした。イエス様から驚かされたことをそのままに受け止め、そこに神様の力、神様の働きを見ようとするのではなくて、自分たちの持っている知識の枠の中で、イエス様を一人の人間として理解しようとし、そしてそれができなかったために、神の子であり救い主であるイエス様を信じて受け入れることができなかったのです。
 私たちはどうでしょうか。イエス様から驚かされ、そこに人間の知識や理解を超えた神様の力と働きを見ようとしているでしょうか。人間的な知識や理解の枠の中だけで、イエス様を見ているということはないでしょうか。
 いつもイエス様から驚かされていたいと思います。その驚きの中で、神様の力、神様の愛、神様の働きを見たいと思います。そうして、日々信仰が新たにされ、イエス様に従っていきたいと思います。

コメントを残す