私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • わたしを見た人は、父を見たのです

    静まりの時 ヨハネ14・6~14〔ヨナのしるし〕
    日付:2024年07月06日(土)

    「イエスは彼に言われた。
    『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。』」
    (6,7)

     道、ということばは、少なからず象徴的です。ここではいわゆる地上に敷かれている道路のことではありません。人生の道、天国への道、幸いへの道、生きる道のことです。
     これからどのように歩んでいくか。そこに道が見えているか。見えているとすればそれは確かな道なのか。私たちは道が見えないと動揺します。見えていたとしてもその道が信用できなければ不安になります。
     イエスさまはここで、あなたの歩む道を教えてあげよう、と言われたのではなく、自らが道そのものである、と言われました。私たちがこれから歩む道は、イエスさまご自身である、と言われたのです。
     それは、どのような道であったとしても、そこにはイエスさまがともにいてくださる、ということです。
     イエスさまがともにいてくださるということは、それは父がともにいてくださることでもある、と続きます。天と地を造られたまことの神さまがともにいてくださるのだ、と。

    「ピリポはイエスに言った。
    『主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』」(8)

     あなたがたは父を見たのだ、と言われたイエスさまへの質問としては少なからず的が外れた問いです。しかし私たちの気持ちを代表しての問いでもあると思います。

    「イエスは彼に言われた。
    『ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください」と言うのですか。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。・・・」(9~10)

     父を見せてほしい、と問うたピリポにイエスさまは、わたしを知らないのか、と問い返されました。そして、イエスさまのうちに父がおられること、父のうちにイエスさまがおられること、すなわち父と子が一つであることを語られました。そのことを「信じなさい」とピリポを信仰に招かれます。

    「・・・わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます」(11~14)。

     父と子とは一つである、ということを信じること。もし信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。謎のことばです。わざ、すなわち、奇跡やしるしをもって信じなさい、ということなのか。もしそうであれば、聖書全体が語ることとは違う理解となってしまいそうです。イエスさまは、悪い時代はしるしを求める、しるしは与えられないのだ、と言われたのですから。
     ではこのイエスさまのお言葉はどのような意味であるのか。わざのゆえに信じるとは一体どういうことなのか。

     イエスさまを信じる者は、イエスさまが行うわざを行うことができる、と言われました。さらにイエスさまが行うわざよりも大きなわざを行う、と言われました。イエスさまが行うわざとはいったいなんであるのか。それよりも大きなわざとはいったい何なのか。さらに、あなたがたが求めるものは、なんであろうともかなえてあげる、と言われました。そのままとることに躊躇するようなことばが続きます。

     イエスさまが行われた最大のわざとは、十字架のことであり、そのイエスさまを復活させられた父のわざももっとも大きなわざと言えるでしょう。その神さま御業が、この世にもたらしたものは、罪の赦しと永遠のいのちです。それよりも大いなるわざ。私たちが願うことがことごとくかなえられる。まるでエデンのそののような日々となる。天国にいるような毎日となる。そのような歩みへと招かれる、ということかもしれません。
     わたしが道だ、と言われたイエスさまが、どこまでも私たちとともにいて下さいます。そのことを喜びとして生きるようにとキリスト者は招かれています。

    「私は倒れても起き上がる。
     私は闇の中に座しても、
     主が私の光だ。」(ミカ7・8)

    〔ヨハネ14・6~14〕
    6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
    7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
    8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
    9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
    10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。
    11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。
    12 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。
    13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。
    14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。