私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた

    静まりの時 ヨハネ5・1~9〔いやしの力〕
    日付:2024年08月23日(金)

    1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
    2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
    3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
    5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。

     むすめの一人が住んでいる地方には、大きなお祭りがあり、毎年新聞やテレビで報道されます。町中が踊りだすようなお祭りで、遠くからの見物客もあるようです。お祭りというと、規模の大小はあるかもしれませんが、たいていは普段の生活から離れた熱気、賑やかさがイメージされるのではないかと思います。「ユダヤ人の祭り」も例外ではなかったでしょう。都エルサレムは多くの人で賑わっていたことでしょう。そんなお祭りの時に、イエスさまもエルサレムに上られました。
     しかしイエスさまの足は、そんな賑わいをよそに一つのところに向かいます。
     ベテスダの池。そこは五つの回廊がありました。また伝説がありました。欄外には、4節としてこの伝説が説明されています。「その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた」。大勢の人たちがいます。外の祭りとはまったく違う人の集まりがあったのです。
     イエスさまは、そのようなところをご自身の行くべきところとしていつも定めておられます。

    よろこびが集まったよりも

    よろこびが集まったよりも
    悲しみが集まった方が
    しあわせに近いような気がする

    強いものが集まったよりも
    弱いものが集まった方が
    真実に近いような気がする

    しあわせが集まったよりも
    不幸せが集まった方が
    愛に近いような気がする

    星野富弘
    偕成社「あなたの手のひら」より

    6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」

     良くなりたいに決まっています。しかしイエスさまは問われます。良くなりたいか。人間はいつもこの神さまからの問いに応えなければなりません。イエスさまは、強権的に私たちをコントロールしようとはされません。私たちの希望を受け止めて、ことをなそうとしてくださいます。

    7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」

     人びとに癒しの希望を与えたはずのこの池の伝説は、同時に、病者の中に熾烈な競争社会を生み出しました。同病相憐れむという美しい言葉があります。しかし罪びとである人間は、どこまでも罪びとなのです。

    8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
    9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。

     イエスさまは、伝説を乗り越えて、癒してくださいました。言葉をもって、新しい人生の扉を開いてくださいました。神さまの言葉は、瞬時に命を与えます。

    ところが、その日は安息日であった。

     この癒しの出来事の今一つの焦点は、ここにあります。神さまは律法主義的な人間に新しい道を示してくださいます。

     それにしても、大勢の病者のいるところで、イエスさまはなぜこの一人の人の癒やしをなさったのか。イエスさまであれば、その場にいたすべての人をいやすこともできたはずです。ベテスダの池だけではありません。世界にはいたるところに病で苦しむ人がいます。病だけではありません。戦争があり紛争があります。飢餓があり災害があり、さまざまな困難があります。それらをすべて解決するのが、神、というものではないだろうか。
     しかし私たちの主は、この38年もの間、病に苦しむ一人の人に集中されました。謎があると思います。
     イエスさまは、まことの神であり、まことの人となられたお方です。まことの人となって、私たちに、本当の人間とはいかなるものであるのかを教えてくださいます。人間である限りに、何もかもをすることはできません。その限界の中に、神さまの愛を宣べ伝え、神さまの愛に生きる道は、いかなるものであるのか。すべての困難を瞬時に解決することなのか。マザー・テレサは、その偉業について問われたとき、いわゆる偉業を為そうとしたのではなく、一人の人に愛を注いだだけであり、もし余力があれば、もう一人の人へ、と願っただけである、と答えたとか。別の問いにはこうも答えています。

     大切なことは、たくさんのことをし遂げることでも、何もかもをすることでもありません。大切なことは、いつでも何に対しても喜んでする気持ちがあるかどうかなのです。貧しい人々に奉仕しているとき、私たちは神に仕えているのだと確信していることなのです。
    (マザー・テレサ、『愛と祈りのことば』、66頁。)