私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 御霊は交わりを造る

    御霊は、諸国民をまぜ合わせた粥を造らない。そうではなくて、諸国民の間の交わりを造る。・・・
    心は硬直状況から解き放たれ、手は所有衝動から自由になる。今やこちらから向こうへ、また向こうからこちらへと流動が起こり、和解が起こる。

    リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、199ページ
    行伝2章42節

    2012年06月08日(金)

    三位一体の神さまである御霊、聖霊さまに満たされるということは、交わりが築かれていくということです。聖霊に満たされて交わりが破壊されるということは、そこで考えられている聖霊に満たされるということの中身をもう少し考えなければならないこととなります。

    聖霊に満たされると、自らの貧しさを知ることができ、隣人と共に生きることができるようになります。

    リュティは、「心の硬直状況から解き放たれ、手は所有衝動から自由になる」と語ります。罪人である人間は心が硬いのです。その硬さは、交わりを破壊します。罪人である人間の手は、所有しなければ居られないのです。所有しなければ、自分自身がどこかに行ってしまうような錯覚に襲われているのです。

    御霊に満たされるということは、こういったことから解放されることです。御霊に満たされると、心は柔らかくなり、この世的なもので満たされようとすることから自由にして頂けるのです。

    ここで築かれる交わりはを、リュティは「粥を造らない」と語ります。粥は、お互いの存在がなくなり、破壊され、ドロドロと一つにされるということでしょう。それも一つにされることかもしれません。しかしそれは非人間的な一つなのではないでしょうか。御霊の一致は、お互いの個性や賜物、様々なその人であることが大切にされ、そのうえで一つにされるということなのです。

    私が私のありのままで、居られるところ、それが教会共同体です。