私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 「夜」に主のもとに来る

    ところで、ニコデモは老人である。そして、おそらくそれが、彼が「夜」イエスのもとに来た理由であろう。彼にとっては、夜はもう慰めではない。夜は彼に眠りを与えないからである。そして、そのような眠られぬ夜の苦しみの上に、その姿を現わしてちょうど水車のように回りながら私たちを悩ます物思いの苦しみが加わる。そこでニコデモは、彼の夜の苦しみをたずさえて、主のもとに来る。もし苦しみが彼を駆り立てなかったならば、彼が主のもとに来たとは、私には考えられない。

    リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、206頁
    ヨハネの福音書3章1,2節
    2012年06月15日(金)

    夜に主のもとに来たニコデモ。なぜ夜に来たのか。人目を避けるためであった、と何度も説教で聞かされてきましたが、リュティはそれもあるだろうとしつつも、別の解釈をします。夜の苦しみをたずさえて主のもとに来たのだ、と。

    夜の苦しみを私たちは持っているのです。またそのような時があるのです。私たちはどこに行けば慰めを見つけることができるのでしょうか。聖書はただ主のもとになるのだと語ります。

    そうです。私たちもそのような「夜」に主のもとに行きましょう。