私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 聞き届けられぬ祈り

    神はすでに、私たちが必要とするものを知っていられる。しかし私たちは、自分が必要とするものを、しばしば知らない。・・・-そこで私たちが、私たちのいわゆる聞き届けられぬ祈りという事実について語ることになる。・・・もし神が私たちに、あらゆる扉を開こうとされたら、私たちは地獄の扉に行きつくだろう。

    リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、292頁

    イザヤ書64章24節

    2012年9月5日(水)

    聞き届けられない祈りがあります。正確には神さまはすべての祈りを聞き、受け止めていてくださいます。しかし私たちの祈りのすべてが、私たちにとって良いことであるのか、私たちを取り巻く世界のとって良いことであるのか、それは私たちには分からないのです。

    神さまはすべてをご存知です。私たちはどのように祈ったらいいかわからないにもかかわらず神さまはすべてをご存じなのです。ですから安心して祈ることができます。

    もし私たちの祈りのすべてが瞬時に実現されるというのが祈りであるならば、こんなに恐ろしいことはありません。そういう意味でも様々な宗教における祈りの恐ろしさを思いますが、聖書の神さまは、時に答えてくださる、あるときは待てといわれる、あるときには答えて下さらない、という方法をもって、私たちの祈りを聞き届けてくださいます。何と愛深い神さまでしょう。

     

    それにしても、すべてをご存知ならばなぜ祈る必要があるのか、との問いも生まれるでしょう。なぜでしょうか。それは神さまは「私たちが祈る」ということそのものを求めておられるからです。すべてがわかっているからと会話をなくすところに豊かな人間関係が育つでしょうか。夫婦、親子、友人、様々な人間関係において、会話は情報を伝達するということ以上の豊かな意味をもっているのではないでしょうか。

    神さまは私たちとそのような関係をもとうとされるのです。そしてそのような神さまとの交わりは私たちが人間として健やかに生きるために必要不可欠なものなのです。

    今日も祈りを確かに聞いてくださるまことの神さまに祈りましょう。