私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 神的な悲しみ

    イザヤがここで「すべての悲しむ者」について語る場合に、彼は、そのような自分自身と自分の民族の罪についての悲しみを、語ろうとしているのである。しかし神は、そのような悲しみを、慈しみ深く眺められる。そして、そのような神的な悲しみを、喜びに変えられる。そしてそのような喜びにも、旧約聖書においては、いつも外面的な表現が与えられている。

    リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、313頁
    イザヤ書61章2,3節
    2012年09月26日(水)

    自己憐憫でも自己嫌悪でもなく、自分自身の罪について悲しむこと。それはなかなか難しいことではないかと思います。その難しいことを「神的な悲しみ」とリュティは語るのでしょうか。

    悲しむ者は幸いです、と主イエスさまは言われました。

    神的な悲しみを、主イエスさまは喜びに変えてくださいます。

    その喜びに、外面的な表現が与えられているといいます。この場合それは装いですが、今日喜びの外面的な表現はさまざまな形で与えられているのではないでしょうか。

    主の日に私たちは神さまの前に出て喜びを表現します。喜びをもって祈り、賛美し、みことばに耳を傾けます。喜びがあって主の日の礼拝を過ごします。そして主の日を喜びをもって過ごすことが、また一週間の喜びに結びつきます。主の日の過ごし方は人生の喜びに深く関わっています。

    主の日を大切にしないで、人生に喜びはありません。

    主の日を大切にすると、人生は喜びで満ち溢れます。