私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである

    静まりの時

    • テーマ:主の栄光があらわれた
    • 聖書箇所:イザヤ11・1~10
    • 日付:2025年12月25日(木)

    6 狼は子羊とともに宿り、
     豹は子やぎとともに伏し、
     子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、
     小さな子どもがこれを追って行く。
    7 雌牛と熊は草をはみ、
     その子たちはともに伏し、
     獅子も牛のように藁を食う。
    8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、
     乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。
    9 わたしの聖なる山のどこにおいても、
     これらは害を加えず、滅ぼさない。
     主を知ることが、
     海をおおう水のように地に満ちるからである。

    主の到来は、この地にまことの平和をもたらし築き上げます。人と人とが、また国と国とが争わないだけでなく、肉食動物と草食動物、また人間とが麗しく共に生きるようになる、とイザヤは預言しました。

    そのような平和をもたらし築き上げるのは、「主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるから」である、と続いて語ります。

    「主を知ること」が「地に満ちる」。主を知ることが平和のカギである。平和、あるいは平安と言ってもよいと思いますが、主を知ることが、その平安を生む。

    主を知ることではない道を歩み始めると、そこに戦いが起こる。主を知ることではない道。主ではないものを知ろうとする道、追い求めようとする道。そこに戦いが生まれる。

    主以外のものを知ろうとし追い求めようとするところに、平安を失う道が広がる。もし平安がない、平和がないと思うならば、自分が何を求めているのかを吟味する必要がある。主を求めているだろうか。それとも別のものを知ろうとして躍起になっているのではないだろうか。

    主は愛であり義である。創造主でありすべてを支えておられるお方である。やがて再臨されこの世界のすべての帳尻を合わせてくださる。十字架にかかるほどの愛をお持ちであり、復活の力をもってともにいてくださる。その主を知る。おそらく人間にはそれ以外を知る必要はないのだと思います。あるいはそれ以外のものはどうしても必要なものではないのです。あるいは主を知ることによってのみ、その他のすべてのことを正しく知ることができるのだと思います。

    主を知る。クリスマスにおいて私たちは幼子となってくださった神を知らされました。飼い葉おけに寝ておられるみどりごこそ、私たちのためのしるしである、と言われた御使いのことばを思いめぐらすこと。まことの平和、平安はこの飼い葉おけに始まります。そして完全に現れました。