私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。(黙示録1・12)

  • 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす

    静まりの時 出エジプト3・1~10
    日付:2023年04月26日(水)

    1 モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。
    2 すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。
    ・・・
    10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
    (出エジプト3・1~10)

     モーセは、エジプトでの手痛い経験によってミディアンに逃げてきました。そこでイテロの羊を飼っています。この日もその群れを導いています。それが日々のモーセの務めだったからです。いつものように群れを導いていたとき、神さまはモーセにお出会い下さいました。
     神さまとの出会いは日常の中にあります。ペテロは漁師として、マタイは取税人としてその人の職務についていたところ、イエスさまが来てくださいました。神さまから召しをいただいたところは、聖会の中でも神秘的な行事のなかでもなく、日常のなかだったのです。

     モーセはそこで、燃え尽きない柴、を見、そして神さまから御声を聞きます。モーセは顔を隠します。恐れます。真実に神さまと出会った人間は恐れを抱きます。主が復活された朝のマリアたちのように。しかしそれはいたずらな恐怖心ではなく、聖い存在に出会った時の畏敬の念、ということでしょう。

    「彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。」(マタイ28・8)

     そのようなモーセに神さまは、苦しみの中におかれているイスラエルをよく知っている、その解放のためにモーセを遣わす、と言われました。召命をいただいてもなおそれに従うことを拒むモーセ。そのモーセに神さまは丁寧に対話を続けていかれました。やがてモーセはイスラエルをエジプトから解放ために立ち上がります。

     神さまは全能のお方ですから、人間の力など何一つなくとも、ことを起こされるお方です。しかし、その神さまがここでモーセを用いられます。全能者であるにもかかわらず、人間の信仰、神さまへの愛がないところでは何一つ御業をしないと決意なさっておられるかのようです。

    神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」(出エジプト3・5)

     神さまの聖さにあずかること。その聖なる栄光に出会うということは、抽象的なことではありません。神さまの聖さにあずかったその人間の具体的な行動を変化させます。モーセは「履物を脱ぐ」という行動に招かれました。教会において講壇に上がるときに靴を脱ぐ牧師がおられるのはこのことからでしょうか。神さまの聖さに触れた者の行動の変化は、靴を脱ぐことだけではありません。おおよそ教会におけるさまざまな場面に、畏れ、に基づく行動が生まれるということでしょう。
     この聖さをどれだけ自分は分かっているだろうかと自らの足りなさを思いますが、礼拝において少しでも学んでいきたいと思います。

    主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。」(出エジプト3・7)

     神さまは人間の苦しみに無関心なお方ではありません。追い立てる者たちの前での叫びを聞いていてくださいます。痛みを知っていてくださいます。そして具体的に助けてくださるお方です。きょうもこの神さまがともにいてくださいます。

    https://youtu.be/vf6jBP4YXwo

    ちょっと雰囲気が違いますが、新聖歌440ですね。