生田世津子はトルベックに深い愛情を寄せている。それはトルベックが純真で神への奉仕者としての尊敬が多分に入り交じっているからである。トルベックの破戒は彼女への愛情のためだがそのことは世津子にとってあまり気にならなかった。つまり自分への愛情のためにトルベックが聖職者の規律を破っていることにかえって彼を信じさせる理由があった。矛盾した話だが、これは女の利己的な気持かも分らない。
女は愛以上に神聖なものはないと思っている。そのためトルベックが破戒行為をしていることをそれほど重大には咎めなかった。つまり彼女はトルベックの聖職者としての純真な奉仕を信ずる一方、彼の宗教的な背徳をも自分の愛ゆえに咎めなかったのである。
松本清張、『黒い福音』、253ページ
人間を無視した無理な戒律は弱い人間を時に罪の方向に導きます。キリスト教会の歴史は戒律の深まりと、それによって押さえ込まれた欲望が様々な形で噴出することを語ります。
さて女性は愛以上に神聖なものはないと思っている、ということですが、確かにそうかもしれません。それを利用して自らの欲望はけ口としたトルベック神父の罪は赦されることではありません。しかしトルベック神父の方も大変純真な生き方の流れのなかでいつのまにやらこんがらがってしまって破戒行為に至ったのには、人間の罪とこの世の罪、そして人間性を無視した戒律の問題と言うほかないようにも思います。
神父を辞めて一信徒となって生田世津子さんと家庭を持てばよかったのになあ、とも思います。
これがプロテスタント教会であれば、婚前交渉という罪は問われなければなりませんが、結婚すればいいわけですし、最終的に殺人を犯さなければならないようなことにはならなかったのではないか、とも思います。
少し話はずれますが、妻ある牧師が自分勝手な欲望から妻以外の女性関係を持つ事件が日本のプロテスタント教会でも起こっています。大変賜物豊かで用いられた先生がこのような行為によってそれまでの豊かな奉仕生活を終えるということが起こっています。大変残念なことです。
人間は愛がなければ生きていけないのですが、具体的な人間の愛がどうしても必要だと思います。しかしそれも神さまの愛があって初めて成り立つものだと思います。神さまの愛をしっかりと頂いて互いに愛する愛に生きたいと思います。神さまの愛に裏打ちされていない愛は、どこがゆがんでいて、良い実を結ぶことにならないのです。
神さまは男女が結びあい家庭を築くことを定めてくださいました。男女の愛は神さまの祝福の御手の中にあります。神さまのみこころを大切にし実を結ぶ愛に生きるものでありたいと思います。
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