神が、福音を一度も十分で正式な形で聞いたことのない人々を罪に定めるのは正しい。機会が全く与えられていない人はいない。すべての人は神を知っている。神を適切に認識していないとすれば、それは真理を押しやってきたからである。したがって、すべての人は責任を負っている。
「第2部、神を知ること」「第8章、神の普遍的啓示」
ミラード・J・エリクソン、『キリスト教神学』、第1巻、宇田進・監修、安黒務・訳、いのちのことば社、2003年3月20日発行、223ページ
一般啓示の項目の中で結論的に上記の言葉が語られています。この言葉を私は十分に理解できているわけではありませんが(というのはこの本の文章は私にはなかなか難解なのです)、少し納得するところもあります。
人間はどの民族も宗教を、あるいは信仰を持っているでしょう。それらが表しているのは、人間は神さまを知っているということです。もちろんそれは充分なことではありません。特別啓示、つまりイエスさまによらなければ十分に神さまを知ることはできません。しかしすべての人は一般啓示の中で神さまの存在を知っているというのです。それが呼び水となって、まことの神さま、主イエスさまに導かれるというのです。ですからこの一般啓示の段階で「真理を押しやって」しまうことの責任は、その人に負わせられるというのです。
ここまで言い切っていいのか分かりませんが、どこか理解ができるのではないかなと思いました。
しかしもちろんそこで先に救われた者が考えなければならないことは、主イエスさまを宣べ伝えることにもっと心を注がなければならないということでしょう。「福音を一度も十分で正式な形で聞いたことのない人々」がいることは、ただただ私たちの怠惰です。この怠惰を主の前に懺悔しなければなりません。この懺悔なくして「すべての人の責任だ」などということはどうかなと思います。
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