よきわざか、信仰かという問題は、次の聖句のうちに二つながら盛りこまれて、この問題に見事に決着をつけているように思われます。はじめの部分、「恐れおののいて、自分の救いの達成につとめなさい」を読むと、すべてがよきわざにかかっているような印象を与えます。しかし、それに続く後の部分、「あなたがたのうちに働きかけてその願いを起させ、実現に至らせるのは神である」は、私たち人間は何もしなくてもよいので、神がすべてをして下さるかのように聞こえるでしょう。キリスト教において私たちがたえず直面するのは、まさにこういうことなのではないかと思います。
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神と人間の協力の結果を、ここまでが神のなさったこと、ここからが人間のしたことと二つにきっちり分けて理解しようとしているということこそ、問題なのですから。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、119f頁
2019年3月24日(日)
一所懸命努力をして善に生きることを目指したいと思います。そうして実りがあれば、それは神さまがそうしてくださったのだと神さまに感謝し、実りがなければ、それでも神さまがその御手をもって支えていてくださるのだと神さまに感謝します。
神さまのお働きと人間のわざを二つにきっちりと分けようとする問題とは、そのようにすると生き方が醜くなるということでしょうか。
「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2・12-13)